私がハンナ・アーレントのマルクスとの格闘に興味をもつのは、私自身の体験と関連しているからである。

私が、入った頃(1967年)のマルクス主義哲学は本当にひどかった。当時「共産主義読本」という教科書が発行されて、「マルクス主義の3つの源泉」、それに綱領の説明という4部からなっているのだが、哲学の部分はスターリンの「弁証法的唯物論と史的唯物論」を丸写ししたものだった。

民青の地区委員会へ行くと、床の間に飾ってあったのはスターリン全集だった。当時すでにソ連との路線論争は一決着ついて、毛沢東路線との闘いの真っ最中だったが、初級教育の教科書は毛沢東の「矛盾論」と「実践論」だった。

戦前の厳しい弾圧の中での唯物論研究会の到達段階より二歩も三歩も後退していたのである。

わずかに坂田昌一の三段階理論が光を放っていたに過ぎない。相次ぐ路線闘争の中で、多くの理論家が党を離れていた。

私は講義の時に、共産主義読本と原光雄の“異端本”を並べて紹介しながら補っていた。

「経済学・哲学手稿」や「ドイツ・イデオロギー」を読んでいたのは、我々よりもむしろ実存主義者だった。ルカーチやグラムシを読んでいれば、むしろ「あいつは危ない」と思われた。

70年代に入って全共闘やトロツキストとの激しい理論闘争が始まると、もはやスターリンや毛沢東ではとても追いつかない。

そのころ青木書店から「講座マルクス主義哲学」全5巻が発行された。これが座右の書となった。「経済学批判要綱」の大工業の部分が大いに引用されたものだ。芝田進午の「人間性と哲学の理論」や「現代の精神的労働」も赤線を引きながら読んだものだ。

つまり「柔構造社会」の批判は、マルクス抜きに議論できなくなっていたのである。


哲学部門での遅れはその後の10年間で急速に回復した。「現代と思想」誌での論文は目をみはるほど「自由化」された。

「対立物の統一」などの非弁証法的な“テーゼ”は一掃された。自然の弁証法は物質・運動・エネルギーなどの連環の中に重層構造として理解されるようになり、社会や歴史の弁証法は目的・主体・関係などの織りなす歴史的構造として理解されるようになった。

これに比べると経済学の改革は道半ばの感が強い。とくに「労働とは何か」という倫理の根底概念が未だに腰が座っていないと思う。

労働というのは欲望の実現手段である。差し迫られた生活上のニーズであろうと、蓋かな生活への希望であろうと、自らを実現したいという渇望であろうと、とにかく欲望があっての労働なのだ。

例えばヘーゲルにあって「仕事」というのは、自らを陶冶するための刻苦勉励を指している。勉強もスポーツも、総意味では仕事なのだ。

外形的な側面から、労働対象があって労働手段があって…などと規定するのは非本質的だ。

もう一つ大事なことは、それは生産活動の一部であって、それ以上のものではないということだ。労働の範疇を野放図に拡大してはならない。物質的か否かはこの際置くとしても、生産(価値生み)活動でない労働はありえないのだ。

ケネーの経済表にすら大地の恵み・太陽の恵みがふくまれているのに、より包括的な生産活動の表式にこれらの要素が入らないわけがない。


話がアラぬ方向に行くのはアルコールのせい。

ハンナ・アーレントが1950年から60年にかけて読んだマルクスとは一体どんなものだったのか。