「マネー」の問題を考えていくうちに感じたのだが、どうも最近日銀によって持ち込まれている「マネー」概念は、欧米の「マネー」概念の直輸入ではないかと思う。

ユダヤ人をめぐる与太話に関わりたくはないのだが、どうもネオリベラリズムというのは、ユダヤ人型の「重商主義」に重なるような気がする。

重商主義が産業資本主義を抑圧し押し潰す、というのはマルクスの重要な提起だ。マルクス自身がユダヤ系だという話もあるが、マルクスは何度かユダヤ人問題に触れている。

その際、ユダヤ人に対してかなり否定的な評価を下している。しかしそれはユダヤ人というより、ディアスポラでコスモポリタンの金貸し階級一般に対する否定であり、資本主義の興隆に対する桎梏としての重金主義、重商主義である。

うろ覚えで言うのも何なので、そのうち、調べた上で書いてみたいと思う。

のっけから話が飛んだが、現金通貨をマネタリー・ベースと呼んだり、マネー・サプライをマネーストックと言い換えたりするのは、キャッシュよりも資産(プロパティー)を重視する思想の表われのような気がする。

日銀は、用語の変換という形で欧米流の金銭観を導入し、そちらを是とする価値体系を構築しようとしているのではないか。

しかし資産を重視し、ひたすら貯めこむことを是とする文化は、これまでの日本にはあまりなかった。

それは日本が遅れていたからではなく、江戸時代の300年を通じて稲作を基礎とする産業構造と中央集権・官僚支配が完成し、産業資本の発展のためのあらゆる条件が整えられていたからであろう。

そこには「金は天下の回りもの」と称するに足るだけの「天下」、すなわち基本的に単一の文化、言語、司法、そして通貨が存在した。

他の国なら三段跳びしなければならなかったところ、徳川さんのお陰で二段跳び終えていたのである。

逆にいうと、幸か不幸か、そのまま資本主義国として発達してしまったために、「近代化」を置き去りにしてきたところがある。

その遅れの金融面における表れが、今まさに「金融ビッグバン」として問われているのかもしれない。

ただこの「近代化」が日本人にとって幸せなことなのか、それが不可避的な過程なのかはなんとも断定できない。

少し古いがジャパニーズインベスター 2002年04月号 

の「金銭感覚 vs マネー感覚  ─ 日本人と欧米人のお金感覚 ─という記事は、その辺の事情を軽やかに描いている。後半部分では、いくつか首肯できない見解もあるが、

日本人の金銭感覚は淡泊

お金は天下の回りもの…

職人的な日本人の金銭感覚

日本人の高値買い

などの記述は、おおむね共感しうるものだ。