本日、嫁さんのお守りを人に頼み、久しぶりに学習会に参加しました。
講師は札幌生まれで、現在は日本とグアテマラの間を往復している新川志保子さんという方でした。
演題は「ジェノサイド裁判の加害者を裁く…リオス・モント裁判」でした。
グアテマラの司法関係者の勇敢さに感銘を受けました。
これに比べたら、機密保護法くらい屁の河童です。

(すみません。帰りに行きつけの店でいっぱいやってきたんで話が飛びます)

話は全てそのとおりなんですが、私は以前から「なぜリオス・モントが虐殺者の筆頭になってしまったのか」ということについて疑問を持っていて、結局今日もその回答は得られませんでした。

リオス・モントはどちらかと言えば進歩派でした。大統領選挙では野党の統一候補になったこともありました。

軍の中では少数派です。おまけにプロテスタントです。
彼が大統領になったのは自らのクーデターに拠ってではなく、革新派の将校に担がれたからです。

彼が史上空前の虐殺者になったのは、彼がよりぬきの保守派だったからではなく、彼が「革新派」だったからです。このパラドックスを解かないと、グアテマラの80年代は語れません。

19世紀の後半、グアテマラの近代化を進めた開明派軍人が居ました。フスト・バリオスといいます。彼のもとで国の近代化は進み、これにともなって近代的な人権感覚も普及しました。
しかしバリオス政権のもとで先住民の土地取り上げも進み、多くの先住民の生活がどん底まで突き落とされました。

ラテンアメリカのような二重底の社会にあっては、近代化は二面性を帯びたものとなるし、その影の部分も我々はしっかりと見据えなければなりません。

米国の西部開拓のロマンがインディアンの迫害と表裏一体であったように、ラテンアメリカの近代化は先住民の犠牲の上に成り立っていたと見なければなりません。

80年代、グアテマラの大状況はニカラグアに始まりエルサル、グアテマラと広がっていった民族解放のウェイヴと米政府・資本と結びついた封建勢力の対決でした。しかしそれは同時に国内の「近代化」と先住民の権利保護との対決でもありました。

グアテマラにおける先住民虐殺はそういう面からも見ておかなければならないと思います。