このほどネパールで制憲議会選挙が行われました。予想された大混乱もなく無事完了したようです。

結果はこれからのようですが、途中経過の限りでは、マオイストの惨敗のようです。まぁ一つの時代の終わりというふうにも見えます。

フランス革命のように、まず王政が倒され、ついで革命を推進したジャコバンが凋落する、という過程にも見えます。

もちろん、インドと中国という大国が干渉しまくっていますから、事態はもう少し薄汚れたものになっていますが…


2008年

4月10日 制憲議会選挙。マオイストが第一党となるが過半数に達せず。
ネパール共産党毛沢東主義派 229  ネパール会議派115, ネパール統一共産党 108, 以下54 - マデシ人権フォーラム、21 - タライ・マデシ民主党、8 - 国民民主党、9 - ネパール共産党マルクス・レーニン主義派、9 - 友愛党、8 - 人民戦線ネパール、5 - ネパール共産党ユナイテッド派

5月28日、制憲議会で連邦共和制採択。王制は廃止される。
7月22日 マオイスト党中央書記局会議が開かれる。他党の抵抗が強いことから、政府の組織を断念し、野党に留まることを決定。
8.15 マオイストが統一共産党、マデシ人権フォーラムと連立政権を組む。プラチャンダが首相となる。財務大臣にバブラム・バッタライ、国防大臣にバーダル(ラム・バハドゥール・タパ)などが就任。他党との関係をめぐりキラン(モハン・バイディヤ)、バーダルら党内原理派と激論が戦わされる。
11.16 制憲議会、新憲法制定に向けた作業日程を可決。
12月 マオイスト活動派がヒマール・メディア紙を襲撃。プラチャンダ首相は、「毛派のふりをして党に汚名を着せる行為」と非難。


2009年

1.12 マオイストと「ネパール共産党統一センター・マサル派」が合同。
2.11 マオイスト党のマトリカ・プラサド・ヤーダブ政治局員がマサル派との合同に反対し離党。ネパール共産党毛沢東主義派の再建を宣言。
5.03 ダハル首相は軍トップのカトワル参謀総長を一方的に解任。
5.03 統一共産党、友愛党が連立を離脱。ヤーダブ大統領もカトワルの参謀総長続投を支持する。
5.04 連立内閣が崩壊しダハル首相は辞任。
5.23 統一共産党と会議派を中心とする連立政権が成立。統一共産党のマダブ・クマール・ネパールが首相に就任。マオイストは首相選出過程をボイコット。

2010年

1月 マオイストを含む主要政党の幹部からなる「枠組み」が構築される。

5.02 マオイストは憲法の早期制定をもとめる大規模集会を開催し、無期限バンダ(強制ゼネスト)を宣言。

5.08 マオイストのバンダが多くの批判を受け中止される。

5月28日 制憲議会が期限を迎える。制憲議会の1年間延長とネパール首相の早期退陣が決定される。

6.30 ネパール首相が辞任。このあと半年以上にわたり首相不在の期間が続く。

11.21 マオイストの第6回中央委員会拡大会議。約6000 人の党員が集まる。ダハル議長とバイデャヤ副議長、バッタライ副議長がそれぞれの方針案を提出。

会議はインド主敵論をめぐり紛糾。これを否定するバッタライ副議長が離党を図ったが、ダハール議長派がバッタライ副議長に同調する。これに抗議するヴァイデイア副議長派がマオイスト党から分離した。
バイデャヤはバッタライ副議長よりダハル議長のほうが危険だと指摘。議長の贅沢を非難し、汚職や密輸に関わっていると糾弾する。

2011年

2.03 マオイストがネパール退陣を条件に統一共産党への支持を表明。カナル委員長が首相に選出される。

5月28日、ネパールの制憲議会が開催され、主要3政党の合意に基づき、議会がさらに3カ月延長される。

8.28 カナル連立政権が崩壊。バブラム・バッタライ(マオイスト党副書記長)が、統一マデシ人民戦線(UDMF)などの支持を得て新首相に選ばれる。制憲議会の任期が3ヶ月間延長された。

10月 インドとネパールが「相互投資振興に関する協定」を締結。

11.01 主要3政党の間で軍の統合問題に関する7項目合意。元マオイスト兵2万名は、国軍編入を希望する者、社会復帰プログラムを希望する者、退職金の支払いによる自主除隊を選ぶ者の3つのグループに分けられる。

11.29 制憲議会の任期が6ヶ月間延長される。

2012年

1月 マオイスト最高幹部の力関係。7人の本部書記のうちダハール派3名、バイデイア派3名、バッタライ派1名で勢力は拮抗。ただしタパ書記長はバイデイア派。

2月8日 非認証兵士(末端ゲリラ)約7500人の除隊作業が完了。28ヶ所のキャンプ中13ヶ所が閉鎖される。

3.28 マオイスト派中央委員会の開催。149名の委員のうちバイディア派50名が欠席。

3.31 国軍統合組の人選に不満を持つマオイスト兵士が反乱の動き。

4.10 バッタライ首相(マオイスト党)が「軍統合に関する特別委員会」を招集。全てのマオイスト・キャンプをネパール軍の管理下に置き武装解除。

4.11 マオイスト党のバイディア派は武装解除を降伏行為と非難。抗議行動を開始する。

4月 ダハール議長、党内の集会において12項目協定の役割はPLAの国軍編入により終わった。再び武器をとって戦う事は自殺行為であると述べる。

5月1日 全政党による連合政権への合意を受けてバッタライ内閣は解散。引き続きバッタライ前首相による新しい内閣が誕生した。大臣は主要4党に概ね均等に割り振られる

5月27日 延長を重ねてきた制憲議会が最終的に解散。バッタライ(マオイスト派副議長)による管理内閣が発足。601人の議員は特権を失う。

6.16 マオイストが3日間にわたる全国幹部会議を開催。バイデイア副議長が独立を表明。ダハルはバイディア派との合意なしに何もしないと演説し、バッタライは「党の結束のためにはいつでも首相を辞める用意がある」と演説し慰留する。

6.19 副議長モハン・バイディア、新党(ネパール統一共産党革命的毛沢東主義)の幹部会議を招集。バイディアが議長、タパ書記長とガジュレル書記が副議長となる。

6月 バイディア派のガジュレル副議長、テライ地方のビジネス・グループと会合。「バイディア派は資本主義に賛成であり、個人の財産所有を支持する」と述べた

7月15日 バイデイア議長が中国共産党の招待により訪中する。

7月17日 マオイスト派拡大評議会、ダハール議長の提案を承認して閉幕。地方グループがバッタライ副議長の失政を攻撃。机、イス等の投げ合いとなる。

9月5日 アメリカは新大使が着任。マオイスト派をテロリスト・ストから外すと発表

9月 バイデイア派、インドの車のネパール国内での通行を妨害すると発表。ネパール・インド友好条約(1950)の廃棄をもとめる。全政党や各団体からの猛烈な反対にあう。

10月 バイデイア派は、ダハル派幹部が短期間に不正蓄財で大金持ちになったと抗議。マオイスト派の兵士の社会復帰等に費やした金額は15Billionルピーに達する。

11月 バイデイア派、主要な敵はインドの覇権主義者とし、さらにマオイスト党(ダハール派)、コングレス党、共産党、主要なマデシ・グループ、政府官僚、財界のリーダー等を含めて攻撃の対象とする。

2012年12月1日 国勢調査の結果ネパールの人口は2650万人。10年間で約330万人増えた。人口の55%が25歳以下

2013年

13年1月

1月9日 バイデイア派の第1回全体集会がカトマンズで開かれる。バイデイア議長、タパ書記長らが一万人の参加者を前に中国を賛美する演説。

集会には中国大使、北朝鮮大使も出席。

13年2月

2.02 第7回マオイスト(プラチャンダ、バッタライ派)拡大代表者会議が開かれる。

(小倉清子氏は「マオイスト党が21年ぶりの党大会を開催。武装闘争を放棄し、議会政党となることを正式に決議」と記載している)

2.11 第7回マオイスト拡大代表者会議が閉幕。25年間議長を務めたプスパ・カマル・ダハール(プラチャンダ)が再任される。副議長にバプラム・バッタライとシュレスタ、書記長にポガティ。

2.27 最高裁長官が首相就任。

13年3月

3月 暫定管理内閣のバッタライ首相が辞任。キル・ラジ・レグミ最高裁判所長官を首相とする選挙管理内閣がスタート。

3月 食品検査局。通称「ミネラル・ウオーター」のうち三分の一が飲料に適してないと発表。約300社の飲料水の製造会社があるが約半数は無許可。

3月 主要4党による合意が成立。制憲議会選挙を6月21日に行うこととし、選挙管理内閣がその間の政務をとることとなる。主要4党とはマオイスト派(ダカール、バッタライ派)、共産党、コングレス党、UDMF(連合マデシ戦線)のこと。バイデイア派はこの合意はインドによる謀略だと反発

4月マオイスト派のダハール議長が、中国・インドをあいついで訪問。

5.30 政党の選挙管理委員会への登録が終了。134の政党が登録するが、バイディア派は登録を拒否。

13年7月

7.01 バイデア派がポカラで中央委員会を開催。選挙をボイコットすることを決定。最強硬派のチャン副議長は、再び武装闘争も辞さないと述べる。

7月 マオイスト内部でバッタライ副議長とダハール議長の主導権争いが激化する。バッタライ副議長は辞任を示唆。

7月 共産党統一派のマダブ・クマール・ネパール議長(元首相)、要職を辞し最高顧問に退く。

8.26 マオイスト軍を国軍に統合する作業が正式に終了。70人の元マオイストに「中尉」の階級が与えられた。ネパール軍へ統合されたマオイスト兵は1400人にとどまり、残りの約15000人は支給金を受け取って除隊。

8月 ネパール・ルピーがインド・ルピーに連動して急落。インフレに拍車をかける。

13年9月

9月 カタール駐在シャルマ大使、”カタールはオープン・ジェイル”と発言。ネパール政府は大使を召喚。

カタールでは数万人にのぼるネパール人労働者が働いているが、今年の6月から8月までに44人の死者がでている。

13年10月

10.01 バイデイア派が国連に書簡を送り、制憲議会選挙に反対の立場を強調。

10.18 IMFの現地調査団、ネパールのインフレ率が7.5%、経済成長率が4.5%、年間個人所得は721ドルと発表。(実際のインフレ率は30%以上と言われる)

13年11月

11月11日 マオイスト派など33の政党がバンダ(ストライキ)を開始する。当初は投票日までストを続けるとしたが、各方面からの圧力が強く1日のみで中止。

16日夜 インド国境が20日まで完全に閉鎖される。カトマンズは警察、軍隊が要所を警備する。

11月19日 制憲議会選挙。選挙当日の車両の使用が禁止される。