幸福について

1.忘れられた「幸福」

今日の人間(昭和10年代の日本人)は幸福について殆ど考へないやうである。我が國で書かれた倫理の本を開いて見たまへ。只の一個所も幸福 の問題を取扱つてゐない。

(そういう時代があったのだと想像することすら辛い時代だ。わずか70年前、それがまさしく現実としてあったのだ。その時代のただ中においてこの文章が書かれたことに、まず思いを致さなければならない)

疑ひなく確かなことだが、過去のすべての時代においてつねに、幸福は倫理の中心問題であつた。

ギリ シアの倫理學、ストアの嚴肅主義は幸福のために節欲を説いた。キリスト教においても、アウグスティヌスやパスカルなどは、人間はどこまでも幸福を求めるといふ事實を根本として彼等の宗教論や倫理學を出立した。

 

2.幸福だから幸福について考えないのか?

幸福について考へることは、すでに一つの不幸の兆しである、といはれるかも知れない。

(これは分かったようで分からない話である。おそらく前号の出だしの部分を引きずっているのだろう。人は健康なときは体のことを気にかけない。病気になった時はじめて健康のありがたさを感じる、という話の類推である。ただその話と幸福の話は各々の範疇が微妙にずれていて、1対1の対応にはなっていない。しかし、それはとりあえず措いておこう)

しかしながら今日の人間は、果して幸福であるために幸福について考へないのであろうか。

むしろ我々の時代は、人々に幸福について考へる氣力をさへ失はせてしまつたほど不幸なのではあるまいか。

幸福を語ることが、すでに何か不道徳なことであるかのやうに感じられるほど、今の世の中は不幸に充ちてゐるのではあるまいか。

(「死について」にせよ、「幸福について」にせよ、出だしはきわめて快調である。「羊頭を掲げ狗肉を売る」のか「竜頭蛇尾」というべきか)

 

3.今日の良心とは幸福の要求である

今日の人間もあらゆる場合にいはば本能的に幸福を求めてゐるに相違ない。(それなのに)幸福については 殆ど考へないのである。これが現代の精神的状況であり、現代人の不幸を特徴附けてゐる。

良心の義務と幸福の要求とを對立的に考へるのは近代的リゴリズムである。これに反して私は考へる。“今日の良心とは幸福の要求である”と。

社會、階級、人類など、あらゆるものの名において人間的な幸福の要求が抹殺されようとしてゐる場合、幸福の要求ほど良心的なものがあるであらうか。幸福の要求と結び附かない限り、(それらは)なんら倫理的な意味を有し得ない。

(ここまで言っていいのか。真珠湾の半年前だ。発禁か、下手をすれば投獄ものだ)

倫理の問題が幸福の問題から分離されたために、あらゆる任意のものを倫理の概念として流用することが可能になつた。(なってしまった)

(私見ですが、倫理“学”とは Sollen の体系ではない。それは人間の「さが」と能動性への洞察でなくてはならないでしょう)

幸福の要求が今日の良心として復權されねばならぬ。ひとがヒューマニストであるかどうかは、主としてこの點に懸つてゐる。

(鋭い。今回は冴えているぞ)

昭和15年(1940年)
6月1日:6大都市で砂糖、マッチの切符制実施。
6月22日:「とんとん、とんからりの隣組」の歌(大政翼賛会推薦)の放送が始まる。
7月23日:近衛首相が「大御心を仰いで一億一心、真実の御奉公を」と檄を飛ばす。
7月26日:基本国策要綱を閣議決定、大東亜新秩序・国防国家の建設。
8月1日:東京の食堂・料理店、米食使用禁止、販売時間も制限。
8月1日:国民精神総動員本部が「ぜいたくは敵だ!」の立て看板1500枚を東京市内に設置した。そのほか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」や「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ」などの標語。
10月31日:東京のダンスホールが閉鎖。「パーマネントはやめませう」運動。 国民服が奨励される。

 

4.倫理的空語 例えば“主体的”

幸福の問題が倫理の問題から抹殺されるに從つて多くの倫理的空語を生じた。例へば、主體的といふ言葉である。

倫理的といふことと主體的といふこととが一緒に語られるのは正しい。 けれども主體的といふ言葉は、幸福の要求から抽象されてしまった。それによって今日では一つの倫理的空語となつてゐる。

 

5.動機論を排除すれば心理的リアリティが消え去る

また現代の倫理學から抹殺されようとしてゐるのは動機論である。

幸福の要求がすべての行爲の動機であるといふことは、以前の倫理學の共通の出發點であつた。現代の哲學はかやうな考へ方を心理主義と名附けて排斥した。そのとき現代人の心理の無秩序 が始まつたのである。

(“心理主義”の排除によって)自分の行爲の動機が幸福の要求であるのかどうかが分らなくなつた。「心理のリアリティ」が疑はしくなり、人間解釋についてあらゆる種類の觀念主義が生じた。

「心理のリアリティ」は、心理のうちに秩序が存在する場合にあかしされる。幸福の要求はその秩序の基底をなしている。だから、「心理のリアリティ」は幸福の要求(を示すことがら)のうちに與へられてゐるのである。

だから、幸福論を抹殺した倫理は、一見いかに論理的であるにしても、その内實において虚無主義(空虚な虚仮威しの主張)にほかならぬ。

 

6.それは心理学の破壊から始まった

以前の心理學は心理批評の學であつた。それは藝術批評などといふ批評の意味における心理批評を目的としてゐた。

人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評價することによつてこれを秩序附けるといふのが心理學の仕事であつた。この仕事において哲學者は文學者と同じであつた。

かやうな價値批評としての心理學が自然科學的方法に基く心理學によつて破壞されてしまった。これに反抗して現はれたのが人間學といふものである。

(気持ちとしては大変良くわかるが、やはりそれは言いすぎであろう。哲学が文学ではなく「総合の学」として自己規定する以上、自然科学的心理学の成果は吸収され総合されなければならない。問題は、それで人間の心理がわかると考える“心理学主義者”と取り巻きたちの浅はかさである)

 しかるにこの人間學も 今日では最初の動機から逸脱してしまった。(“人間学者”も、心理学主義者と同様に)人間心理の批評といふ固有の意味を抛棄した。

(いまや)あらゆる任意のものが人間學と稱せられるやうになつてゐる。

哲學における藝術家的なものが失はれてしまひ、心理批評の仕事はただ文學者にのみ委ねられている。そこに心理學をもたないこと(総合性の放棄)が一般的になつた今日の哲學の抽象性が ある。

(これは一種のパテント争いのようなもので、“心理学”者たちが心理学の専門家でもないのに「心理学」のパテントを取ってしまい、ついで今度は“人間学”者や論理実証主義者が「哲学」のパテントさえもとってしまったようなものだ。大学の講座は全部そういう連中に占領されちまったから、こちらは在野でやっていくしかない)

 

7.現代哲学の特徴は幸福論の抹殺

その際見逃してならぬことは、この現代哲學の一つの特徴が幸福論の抹殺と關聯してゐるといふことである。

幸福を單に感性的なものと考へることは間違つてゐる。むしろ主知主義が倫理上の幸福説と結び附くのがつねであることを思想の歴史は示してゐる。幸福の問題は主知主義にとつて最大の支柱であるとさへいふことができる。

(主知論という言葉は唯物論と置き換えても良いだろう。幸福(あるいは不幸)は諸個人にとってまごうことなき現実的な所与であるから、唯物論者の拠って立つべきものである)

もし幸福論を抹殺してかかるなら、主知主義を扼殺することは容易である。實際、今日の反主知主義の思想の殆どすべては、幸福論を抹殺することから出發してゐる。そこに今日の反主知主義の祕密がある。

 

8.「愛する者のために死ぬ」ことと幸福との関係

幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。

もちろん、他人の幸福について考へねばならぬといふのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に對して、自分が幸福であることよりなほ以上の善いことを爲し得るであらうか。

(と、見得を切った後、三木はのっぴきならないところへ突っ込んでいく)

日常の小さな 仕事から、喜んで自分を犧牲にするといふに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。(なぜなら、幸福は徳であり、徳は力であるからだ)

(愛するもののために死んだ多くの人々がいる)愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であつたのか。

(問を発した途端に、三木は教誨師の立場に戻る。まるでサーカスだ。あるいは最後は見せないストリップ嬢だ)

そうではなく、反對に、彼等は幸福であつた故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。

(ここで読者や学生は一斉に赤鉛筆を取り出して傍線を引いたことであろう。ただ、これは自問に対する自答にはなっていない。論理には曖昧さと飛躍がある。なぜなら「幸福」を極限まで個人化してしまっているからである。これでは実存へのもう一つの実存の対置にしかなっていない。もっと人間の類的本質に関わった押し出しをしなければならないだろう。最もそんなこと書けるはずもないが…)

 

9.生とは想像である

(この人の話はよく飛ぶ、他人をけむにまく趣味があったようだ。小見出しをつけていても分からなくなるほどである。これをベタの平文で読んでいた当時の読者はえらいと思う。わかったような気分になりたかったんだろうねぇ)

死は觀念である、と私は書いた。これに對して生は何であるか。生とは想像である、と私はいはうと思ふ。

これは註釈で済む話ではない。日本の知識人は「想像」あるいは「想像力」という言葉を安易に使いすぎる。明治のご一新以来、西洋の知識や物の考え方を導入する人々は、言葉の使い方がえらく乱暴でぞんざいである。日本で古来使われてきた言葉を、まったく違った意味で使いまわして平気でいる。こういうのを夜郎自大という。
世間で「想像」といえば「空想」と同じ意味である。「キリンは想像上の動物である」とか、非現実的でひとりよがりなネガティブな行為である。
ジョン・レノンの「イマジン」はそういう日本の伝統的な考えでなく、「想像」にポジティブな意味があることを知らしめた。だからと言って Imagine という言葉が100%ポジティブなものかというとそうでもない。価値中立的なもののようだ。
なにか「想像」に代わる、ぴったりした訳語はないのだろうかと考えている。ちょっと狭いけど「想起」、長くなるけど、「イメージをかき立てる」とか、「思いを形にする」とか、小難しく「心象を形成する」とか、要するに企画・立案までをふくむもっと具体的な現実的な行動なのだ。

飜つてこれを死 と比較するとき、生がいかに想像的なものであるか。

想像的なものは非現實的であるのでなく、却つて現實的なものは想像的なものであるのである。

(これも不親切な言い方で、日本語でいえばまさしく「想像的なものは非現實的」なのだ。それとは全く関係なく、現実的なものはイマジナティブであり、人間の思考を刺激するのである)

現實は私のいふ構想力(想像力)の論理に從つてゐる。

(これは無茶だ。私の構想力に現実が従っているなら、どうしてあんたは現実の前に殺されたんだ、ということになる)

 

10.今一度、死について

人間を一般的なものとして理解するには、死から理解することが必要である。

死はもとより全く具體的なものである。各人がみな別々に死んでゆく。しかしこの全く具體的な死はそれにも拘 らず一般的なものである。

(死に方はそれぞれ違うが、人間必ず一度は死ぬんだ、ということだろう)

死の有するこの不思議な一般性こそ我々を困惑させるものである。

ひとびとは唯ひとり死ぬる故に孤獨であるのではなく、死が一般的なものである故にひとびとは死に會つて孤獨であるのである。

(どうせ死ぬときは一人なんだから、それが孤独というわけではない。死ぬ人を送る側の人が孤独なのだ、ということであろうか。あるいは「次は俺の番か」と感じることなのか)

私が生き殘り、汝が唯ひとり死んでゆくとしても、もし汝の死が一般的なものでないならば、私は汝の死において孤獨を感じないであらう。

(自殺とか事故死とか特殊な死に方をした人に会っても、「次はおれの番か」とは感じないだろう)

11.死は一般的であり生は特殊的である

死が一般的であるのに比し、生は特殊的である。特殊的であるがゆえに想像的である。

(三木さん、それはあまりに言葉足らずだ。例えば文学的に「死はグラデーションはあっても白黒の墨絵で、生は多彩で、そのゆえにイマジナティブである」と言えば、もう少し理解できる)

もとより人間は單に特殊的なものでなく同時に一般的なものである。しかし生の有する一般性(一般的性格というべき)は死の有する一般性とは異つてゐる。死の一般性が觀念に類するとすれば、生の一般性は想像力に關はる。

三木は一般性と特殊性の概念が整理できていない。そのために言葉の混用が生じている。彼の言う一般性には普遍性がふくまれている。彼の言う特殊性には個別性がふくまれている。
生も死も、普遍的であるとともに個別的である。死の特殊性は個別性を普遍性が貫いているところにあり、生の特殊性は個別性が普遍性に抗っているところにある。
だから死は受動的で観念的であり、生は想像的(イマジナティブ)で創造的(クリエイティブ)なのである。

個性とは別にタイプがあるのでなく、タイプは個性である。死そのものにはタイプがない。死のタイプを考へるのは死をなほ生から考へるからである。

12.「構想力」なるもの

個性は多樣の統一であるが、相矛盾する多樣なものを統一して 一つの形に形成するものが構想力にほかならない。

個性は感性からも知性からも考へられない。それは構想力から考へられねばならぬ。

自然はその發展の段階を昇るに從つて益々多くの個性に分化する。そのことは闇から光を求めて創造する自然の根源的な欲求が如何なるものであるかを語つてゐる。

うろ覚えで書くのも気が引けるが、たしかこの頃エンゲルスのノート「自然弁証法」が発見され、唯研を通じて紹介されたのではなかったろうか。
この数行は、どうもエンゲルスを下敷きにしているような気がする。そのうえで、おそらくは彼独自の思いつきたるべき「構想力」を密かに挿入するという手の込んだ仕掛けだ。
しかしこの作業はおそらく見当違いだろう。「多様なものの相矛盾する」過程こそが個性を形成する原動力であり、個性はその過程から析出してくるのである。そして個性が自然や社会と葛藤する中から、個性的かつ普遍的な人格としての「アイデンティティー」が獲得されていくのである。
そのうえで、「構想力」を一刀両断に切り捨てるのではなく、その言葉で三木が何を言おうとしたのかを考えてみなければならない。おそらくそれは内発的な欲望なのではないか。動物的な条件反射的な欲望ではなく、欲望を満たすことでさらに拡大する自己発展的な欲望なのではないか。

13.幸福とは成長することである

生と同じく幸福が想像であるといふことは、個性が幸福であることを意味してゐる。

どうも三木という人の言葉に対する無神経さ、言葉遣いのぞんざいさが気になる。コンピューターのマニュアルを読んでいるようだ。理数系の人なのだろうか。
「生と同じく幸福が想像である」という命題はどこにも展開されていないし、論証もしていない。「生が想像である」ということすら十分に展開されているとは言いがたい。「個性が想像である」ことと「個性が幸福である」ことの論理的関係もサッパリ飲み込めない。
頑張って解釈すると、生というのはイマジナティブなものであるから、「個性」を形成するための構想を生成する。構想を生成する過程も幸福の過程であり、その構想を実現するための努力も幸福の過程である。そして努力の結果実現した「個性」を発揮することも幸福の過程である、ということになるのだろう。

「幸福は肉體的快樂にあるか精神的快樂にあるか、活動にあるか存在にあるか」と問われる。答えはそのいづれでもある。

なぜなら、(人間にとって幸福とは人格形成にあるのであり)、人格は肉體であると共に精神であり、活動であると共に存在であるからだ。

14.幸福は人格である

今日ひとが幸福について考へないのは、(かくあるべしという頭と、かくありたいという体に)人格が分解してしまっているからである。それは現代(という時代)の特徴に相應してゐる。この事實は逆に幸福が(あるべき人格の本質)であることを示している。

眞の幸福は、捨て去ることはできない。彼の幸福は彼の生命と同じやうに彼自身と一つのものである。この幸福をもつて彼はあらゆる困難と鬪ふのであ る。幸福を武器として鬪ふ者のみが斃れてもなほ幸福である。

歌はぬ詩人といふものは眞の詩人でない如く、單に内面的である といふやうな幸福は眞の幸福ではないであらう。幸福は表現的なものである。鳥の歌ふが如くおのづから外に現はれて他の人を幸福にするものが眞の幸福であ る。


これだけ付き合っておけば、もういいでしょう。

三木清という人はお経を覚えて帰ってきたばかりでいきなり古刹の管長になったみたいな人で、本当の勉強をしていません。それでも一生懸命やっていることは分かるのですが、出だしの割に最後の方になると何を言っているのか分からなくなるのが玉に瑕です。

それが有難いと言って、一生懸命持ち上げる人もいたり、弾圧下に生き延びる智恵だけは人一倍持っていたりして、なんか今では偉い人になってしまったようで、地下で恐縮しているのではないでしょうか。