このあいだ、JR北海道の事故問題についての学習会があった。

講師の話を実際に聞いてみて、まことにひどいということがよく分かった。経営の柱から安全という心柱がすっぽり抜けていた。

原因は国の北海道切り捨て、地方切り捨て、国民生活切り捨ての政策にあることもよくわかった。

問題は展望だ。

じゃあどうするのか。

講演が終わってからの飲み会で、私は「もう頑張らなくてもいいんじゃないの」といって、それが大問題になった。

「あなたともあろう人が、そんなこと言うとは何ごとか」と血相を変える人まで現れる始末だ。

そもそも経営が成り立つような話ではないのだ。

まず第一、鉄道というのは大量輸送機関である。運ぶ量が大量であればあるほどその威力を発揮する。

私は4年間釧路で暮らしたが、根室まで行く線路も網走まで行く線路も利用しなかった。一度だけ「どんなもんじゃろ」と思って根室からの帰り道汽車に乗ったことがある。厚岸まではほとんど客は居なかった。釧網本線も似たようなもので、せいぜい標茶までだ。バスもガラガラなのに変わりはない。

要するに人なんか居ないのだ。いても、高齢で動けないか、動ければ車でという人ばかりなのだ。

こういうところでは、大量輸送機関ではなく少量輸送機関が主役とならなければならない。

第二に、鉄道というのは動脈なのだ。脈を打ちながら酸素と栄養を送り込む装置なのだ。そういう時代にあっては鉄道事業の採算性は別の角度から検討される。最初は赤字でもいつか必ずそれは大地の恵みと結合して果実をもたらすのだ。

鉄道というのはたんなる道ではない。それは未来へつながる路であり夢なのだ。もしそうでなくなったのなら、事業としての鉄道は経営の論理に従って裁断されるべきだ。夢の重みをいつまでも背負わされる必要はないと思う。

国鉄の分割・民営化のとき、北海道や九州が一番の貧乏くじを引かされた。交通というのは行き来だ。端の部分は当然めぐりが悪く、真ん中ほどめぐりのいいのは、小学生でも分かる。

しかし端があってこそ、中も維持されるのであるから、相応の援助は当然必要なはずだ。
これはもちろん程度問題で、この論理は野放図には拡大できない。あくまで基本は自助努力だ。

では援助の量的基準は何によって決まるか、それは最低限としてユニバーサルな保安基準に規定されるだろう。

ユニバーサルな保安基準を満たすため、経営上これだけ足が出ると言われたら、その分は最低、援助しなければならない。