1.現代人における病気と健康の関係

私はあまり病氣をしないのであるが、病床に横になつた時には、不思議に心の落着きを覺える。

(逆に言うと)

病氣の場合のほか眞實に心の落着きを感じることができない(のかもしれない)

(これは)現代人の一つの顯著な特徴、すでに現代人に極めて特徴的な病氣の一つである。

書き出しはやや衒学的だ。「現代人」というのがどういう人なのか良く分からないが、広い意味での現代というばかりではなく、昭和15年という「狂気の時代」を暗示しているのかもしれない。病気は世間からの脱落であるが、同時に脱出でもある。
例えばうちの親父は肺病で片肺切除していた。だから戦争には行かず生き延びた。おそらく非国民扱いされただろうが。
検閲だらけで真実の言葉は語れない。「現代人」というモヤッとしたその辺には、読者との間に隠語めいた阿吽の呼吸があったのかもしれない。

2.健康とは恢復過程である

人間の多くは「病氣の恢復」としてしか健康を感じることができない。

恢復期の健康感は自覺的であり、不安定である。健康といふこともできぬやうなものである。青年の健康感とは違つてゐる。

このクダリはとてもいい。その後のルネサンス論はどうでもいい。

3.加齢と死の恐怖

親しい者の死ぬることが多くなるに從つて、死の恐怖は反對に薄らいでゆく。生れてくる者よりも死んでいつた者に一層近く自分を感じる(ようになる)

(加齢は)單に身體の老衰を意味するのでなく、むしろ精神の老熟を意味してゐる。死は慰めとしてさへ感じられる。

死の恐怖はつねに病的に、誇張して語られてゐる。死の恐怖は浪漫的・病的であり、死の平和は古典的である

4.孔子とモンテーニュとパスカル

孔子の言葉に「われ未だ生を知らず、いづくんぞ 死を知らん」というのがあるが、(孔子は)リアリストであると考へられる。

(戦前、リアリストという表現は“唯物論”の隠語だった)

「最上の死は豫め考へられなかつた死である」とモンテーニュは書いてゐる。これは孔子の考えと似ている。

パスカルはモンテーニュが死に對して無關心であるといつて非難したが、(それは当たらない)

5.死に意味はあるが内容はない

死について考へることが無意味であるなどと私はいはうとしてゐるのではない。死は觀念である。

現實或ひは生に對立して、思想といはれるやうな思想は死の立場から出てくる。觀念らしい觀念は死の立場から生れる。

ここは論理が飛躍している。おそらくキリスト教の死生観を指しているのだろう。
人間の生は苦しみと悩みの連続である。
なぜか、人間は神に反逆し楽園を逐われた存在であり、反逆者としてその生を送らなくてはならない。その故に彼は受苦的存在なのである。
だから、人間は苦しむために世に生まれ、死により救われるのである。
ただしそれは信仰と善行によってもたらされる。
ということで、いわば“死が生を規定する”、あるいは“観念が実在を規定する”構造になっている。
これに対して、死をもっと無機的なものとして、“生の中断”と見ることがリアリストのとるべき態度だと、三木はいいたいのだろうと思う。

5.西洋思想と東洋思想

生と死とを鋭い對立において見たヨーロッパ文化の地盤にはキリスト教の深い影響がある。

東洋には思想がないのではない。ただ その思想といふものの意味が違つてゐる。

西洋思想に對して東洋思想を主張しようとする場合、思想とは何かといふ認識論的問題から吟味してかかることが必要 である。

(意味不明だが、“東洋主義者”への皮肉とも読める)

6.虚榮心は死をも對象とする

假に誰も死なないものとする。さうすれば、俺だけは死んでみせるぞといつて死を企てる者がきつと出てくるに違ひない。人間の虚榮心は死をも對象とすることができる。

そのやうな人間が虚榮的であることは何人も直ちに理解して嘲笑するであらう。

(“尊厳死”の虚構をバッサリ)

7.生への執着と死

執着する何ものもないといつた虚無の心では人間はなかなか死ねない。執着するものがあるから死に切れないといふことは、執着するものがあるから死ねるといふことである。

深く執着するものがある者は、死後自分の歸つてゆくべきところをもつてゐる。それだから死に對する準備といふのは、どこまで も執着するものを作るといふことである。私に眞に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。

(と、突如論調が変わる。この後、無造作に生の哲学や親鸞が接ぎ木される。時代が強いたこの論理的退廃は痛ましい)

8.伝統というのは死者の生命

伝統が過去から次第に生長してきたと考へるのは自然哲學的な見方である。シェリングやヘーゲルの如き ドイツの最大の哲學者でさへも、通俗の傳統主義の誤謬に陥っている。

それは生きてゐる者の生長の問題ではない。(伝統の意味を)自分自身の中から生成するもののうちに求められる限り、それは相對的なものに過ぎない。

絶對的な傳統主義は、生けるものの生長の論理でなくて「死せるものの生命」の論理を基礎とするのである。

死者の生命は絶對的な生命である。この絶對的な生命は眞理にほかならない。

それは我々の中へ自然的に流れ込み、生命の一部分になつてゐるやうな「過去」を問題にしてゐるのではない。

過去は眞理であるか、それとも無であるか。傳統主義はまさにこの二者擇一に對する我々の決意を要求してゐる。

(“絶対”の大安売りだ。最後は絶対的伝統のために安んじて死ねということになる)

9.近代主義の終焉

ペトラルカの如きルネサンスのヒューマニストは、原罪を罪としてでなくむしろ病氣(罰)として體驗した。

ニーチェ はもちろん、ジイドの如き今日のヒューマニストにおいて見出されるのも、同樣の意味における病氣の體驗である。ヒューマニズムは罪の觀念でなくて病氣の觀念から出發する。

罪と病氣との差異は何處にあるか。死は觀念であり、病氣は經驗である。病氣の體驗が原罪の體驗に代つた(矮小化されたということか?)ところに近代主義の始と終がある。

ともかく病氣の觀念から傳統主義を導き出すことは不可能である。

正直言って、何を言いたいのかよくわからない文章である。
読者として想定しているのは青年知識層であろう。もはやマルクス主義は全滅した。軍国主義が闊歩し、その思想的基盤として伝統主義と浪漫主義が風靡していた。そういう時代に声を上げ続けること自体が困難であったことは認める。
三木は伝統主義を支持することで浪漫主義を攻撃しようとしたのか、それにしても私には、三木が若者たちに「死ぬ意味」を与えようとしている
教誨師の役どころを演じているようにしか見えない。(鼓舞はしていないが、結果的には似たよなものだ)