秘密保護法案で問題になっているのは国民の知る権利だ。一方、ドイツのメルケル首相が携帯電話を盗聴されていたことで問題になっているのは、知られない権利だ。

一方において知る権利を守れと主張し、他方において知られない権利を守れというのは、一見矛盾しているようだ。

ここを解きほぐし、串刺しにする論理を我々は持たなければいけない。

A 言葉の錯綜を解く

1.権利の二つの意味

まず国民の権利だが、個別的な権利枠組みと集合的な権利枠組みとを分けて考えなければならない。

個別的な権利は、基本的人権を指す。知られない権利はここにふくまれる。思想・信条の自由とかプライバシー権も基本的人権の一部をなす。

個別的な権利は時代や環境に応じてかなり伸縮する。

集合的な権利というのは、国民主権ということだ。国家のあり方に係る問題については国民に決定権があり、それは無限の権利だ。

国民の知る権利というのは、基本的人権ではなくこの国民主権という集合的権利に由来する。

国民は国家の主人公であり、無限の力を持っているわけだから、知る権利というのは論理的にはおかしいのであり、むしろ知る義務というべきものかもしれない。

2.企業における権利

この二重性は、企業の論理と比べてみるとよく分かる。

企業の論理は国家の論理とは異なる。社員には働く権利(基本的人権)はあるが、知る権利(主権に由来する権利)はない。会社は社員のものではないからである。

資本家にとっては、知る権利はある。というか、知る責任がある。会社は自分のものだからであり、会社には社会的責任がともなうからである。この際、知る権利は組織のガバナンスと直結する。

プロ野球の「飛ぶボール」問題は、「知る権利」をめぐる問題の一つの典型である。プロ野球連盟を仕切る立場のコミッショナーが、ボールの仕様変更を知らなかった。知らなかったにもかかわらず、ボールの一つ一つに自分のサインを刻印していた。

結果としてコミッショナーは選手やフアンを裏切ったことになる。当然その責任をとるべきだが、むしろ主要な責任は、ボールに自分の名を刻印することの重みを自覚していなかったことにあり、その結果、知る義務を果たさなかったことにある。

B 国家主権を考える

1.国家主権は存在する

国民の権利と同様に国家の権利も存在する。それは国際社会における諸条約に定められた権利であり、他国からの干渉を許さない国家主権である。

人権と同様、前者の権利は伸縮するが、後者は死活的である。「知られない権利」は自衛権と並び、国家主権の核心をなす。

しかし国家は国民に対して権利を持たない。主権者たる国民の意志を代行する事務局にすぎない。どちらが優越するかという議論は無意味である。

2.企業主権を考える

企業を所有する資本家は企業に対し主権を持つと同時に、一般社会に対して「法人格」をもって臨む。

法人には関係法を通じてさまざまな義務と権利が与えられている。しかし、市場経済の中では熾烈な競争が繰り広げられるわけで、みずからの身はみずからで守るしかない。

その中では企業秘密を守ることも当然視野に入ってくるわけで、その限りでは厳しい守秘義務が課せられる可能性もある。それは企業の「知られない権利」とも言える。

しかしそれは外部に対する守秘であり、法人格主体に対して秘密保持が行われるならば、それは陰謀にほかならない。

先ほどのプロ野球協会の話に戻る。

ボールの仕様を独断で変更し、それをコミッショナーに伝えなかった事務局長は、極めて重いペナルティーを科せられるべきだ。

事務局長の犯した陰謀行為は、法人主体に対する裏切り・破壊行為であり、コミッショナーの犯した知る義務に対する不作為とは、レベルの違う問題なのである。

C 国会の権限制限は最悪

いずれにせよ、権利主体としての国民には一切の秘密はあってはならない。これが基本である。しかし国家主体には国家機密というものはありうるわけである。

ただし国家機密は限定的・一時的なものであり、主体者たる国民への公開は絶対的な義務であり、主体者たる国民には公開を迫る責務がる。

これをどう折り合いを付けるかということになるが、現実には国民主体の意思代行者としての国会というものがあるのであって、ここが一切の情報を管理した上で、振り分けを行っていく以外にない。

少なくとも行政機能が機密を独占するのは原理的に許されないことであり、国権の最高機関たる国会にすべてが公開されるべきである。

企業と株主の関係については語るだけの知識を持ち合わせていない。かつてのいわゆる「日本型経営」においては、労働者もふくめた会社が法人の実質的主体と考えられてきた。少なくともかつての経営者はそのように唱えてきた。

D 一応の“結論

「知られない権利」は個別的な権利であり、他者とのあいだに成立する権利枠組みである。それは個人間だけでなく、企業間、国家間においても成立しうる。

「知る権利」は権利主体の本源的権利と目され、それは主体が主体であり続けるための不可欠の要素となっている。

知る権利は、同時に知る義務でもある。それは情報提供者を保護し情報秘匿者にペナルティーを与えるような努力なしには保障し得ないだろう。

少なくとも行政府ではなく、国民主権の代行者である国会に情報が集中されるべきだろう。