以下は、「ボルティモア・サン」紙の94年5月号に載った記事の抄訳

バックはモスクワ生まれ。モスクワ音楽院を卒業し73年のモンテビデオ音楽祭で優勝している。

しかし76年にアメリカ人女性と結婚した時、その前途はくじかれた。その女性はUPIモスクワ支局長の娘であった。

彼は繰り返し検挙された。アメリカのスパイの容疑だったりホモの容疑だったり、あるいはその両方だったりした。

彼が二度目の結婚をすると、事態は更にひどくなった。結婚相手の父親がKGBの高官だったのだ。

彼は二度にわたり獄に繋がれ、そのたびにひどく打たれた。鼻と頬を骨折し前歯が折れた。

1980年以降、コンサートはほとんど行えなくなった。彼は白タクの運転手となり、早朝から闇のガソリンを求めてさまよう生活をおくることとなった。

こういう災難は、半分は彼の性格がもたらしたものだった。彼は当局への不満を隠そうとしなかった。

1990年、彼は耐えられなくなりイスラエルへわたった。

しかしイスラエルに仕事はなかった。そこでユダヤ人組織の招きに応じて92年アメリカに渡った。

フェルツマンは「私が聞いた中で最も優れた技巧の持ち主であり、ホロヴィッツ、レヴァイン、ホフマンと続くロシア楽派の最後の名手だ」という。

「しかし彼はまったく無名で、コンサートの予定も金も持ち合わせていない」

フロリダで数回コンサートを行ったあと、仕事があるかもしてないと誘われてボルティモアに来た。しかしボルティモアでコンサートを開くことはできず、借りたアパートにはピアノさえなかった。

篤志家から無料で借りていたそのアパートも追い出され、彼はボストンの友人の家を目指してバン・トラックでボルティモアを後にした。

彼の非迎合的姿勢はアメリカでも変わらなかった。気に入らない聴衆には皮肉を浴びせた。

彼のショパン演奏は乱暴といえるほどに激情的である。傲慢といえるほどに奔放である。

故ホロビッツやマルタ・アルゲリッチが彼の卓越した技能を賞賛している。


この後バックは十数年をアメリカで暮らし、最後はロスアンゼルスで亡くなったようである。