「発掘された宮本百合子の新聞論稿」という記事が文化面に掲載されている。
1947年6月4日に新潟日報に掲載予定だったもので、GHQによる事前検閲にまわされたことから、資料として残ったものとされる。
その1ヶ月前の5月3日に施行された新憲法について書かれた「新憲法と婦人の現実」という原稿である。
部分的に紹介されているのだが、なかで下記のくだりが目に止まった。

自分たちの手で、生活上の恐ろしい矛盾を持ち越している社会的な原因を取り除いて良い…
そのことを、憲法は、
「すべての国民は働く権利がある」という言葉で
「すべての人は教育を受けることができる」という言葉で、
「最低限の生活を確保する権利がある」という言葉で、
言い表しているのである。


この三つの権利を一体のものとして捉えなければならない、というのは私のかねてからの持論である。拙著「療養権の考察」の背骨となっている思想である。
朝日裁判以来(それ自体の意義を否定するものではないが)、ともすれば生存権が切り離されて、弱者の権利であるがごとく論じられる傾向が強まった。場合によっては、それが「患者の権利」と混用され、矮小化されてしまった。
学ぶ権利、働く権利、その中に自己を発展させる権利と結びつかなければ、「生きる権利」は意味を持たない。

生存権は、他ならぬ私たちみずからの主体的な権利であり、文化を享受し担う権利であり、キラキラと輝いている権利なのである。貧しい人やかわいそうな人がそれなりに生きていく権利ではない。

1947年に、宮本百合子がそうやって語っていること、さらにそこに社会を発展させていく権利を付け加えていることに、駆け寄って握手をしたいほどの強い共感を覚える。