ここから先は酒飲み話と思って聞いてください。(実際に入ってもいるのですが)

チェンジアップが外角から沈み込んできて、ボールと思った強打者が一瞬見逃してそれがズバッと決まってストライクアウト!

これが京都地裁の判決ではないでしょうか。裁判官としてはこたえられない瞬間でしょう。

右翼の街宣といえば、権力の支配手段としては必須のアイテム。しかし今回の問題では安倍首相、読売、産経、はてはやまと新聞に至るまで判決を支持、という前代未聞の光景が出現しました。

法曹界の常識から言うと多少無理筋のところはあるが、政治的に考えるとここしか落とし所はない、そのギリギリのところをピンポイントで狙ったものでしょう。

その上で、人種差別禁止条約をゴシゴシと押し付けるわけですが、ここは政府も泣き所、受け入れるしかありません。後は上級審で砂糖をまぶして飲み込みやすくしてくれるでしょう。

反動的か進歩的かを問わず、人種差別撤廃条約の第4条はなかなか受け入れにくいものです。

ヨーロッパは小国が乱立し、その中で支配・非支配の関係をめぐって千年以上もギスギスした国家関係を続けてきました。その中で国際関係を律するルール作りも行われてきたのです。

さらにアジア・アフリカから大量の移民を受け入れてきました。これは移民に寛容だからではなく、彼らを植民地のくびきのもとに支配してきたからです。

これらの精神的風土は日本とはまったく異質のものです。

ヨーロッパ社会における民族差別には現実的土台があります。ロンドンでもパリでも、ちょっと中心街を外れると、歩いているのは黒人やアラブ人、インド人ばかりです。

選挙では排外主義政党がかなりの地位を占めています。そこには少なからず肉体的暴力も絡んでいます。

したがって条文上の厳しさは、移民を取り巻く環境の厳しさの反映として捕らえておく必要があると思います。

法治に対して文治という言葉があります。まずは文化の力で国を治めていこう。足らざる部分は法で、ということになるでしょうか。

逆に、法の足らざるところは民衆の叡智でということもあります。法には二面性があり、国内法についてはみんなそのことを理解していますが、国際法となるとすべて進歩的であるかのような事大主義が幅を利かせています。

ユダヤ人問題はこうした移民問題とは少し分けて捉えておいたほうが良いと思います。これは現実問題というよりは優れてイデオロギッシュな問題です(在日朝鮮人問題も同じです)

イデオロギー的差別はしばしば政治環境と裏表の関係となるため、おそらく刑法的な対応はなじまないと思います。


ところで、以前「スラップ訴訟という言論弾圧」という記事を書きました。企業、経営者が裁判という手段を用いて言論弾圧に乗り出す傾向を警告したものです。

この時は明治大学の野中先生が企業批判の論文を発表したところ、それがけしからんというので5500万円を請求しました。

野中先生は、こうした不当な訴えを許せば、研究も社会貢献活動もできなくなります と語っています。

民事でバンバンやればこういう弊害も出てくるので、逆の歯止めも必要になるかも知れません。