Grigory Ginzburg (Piano) - Short Biography - BachCantatas

ギンスブルクに関する日本語の記述は殆ど無い。ウィキペディアもきわめて簡潔だ。英語版のWikipedia も同様だ。上記のサイトにちょっとした伝記が載っていた。

 

グリゴリ・ギンスブルク

1904年5月29日 ニジニ・ノヴォゴロド生まれ。1961年12月5日 モスクワで死亡。

1927年 ワルシャワにおける第1回国際ショパン・コンクールで第4位入賞。

 

グリゴリ・ギンスブルクは、音楽の伝統を持たない家族のもとに生まれた。

しかし彼の両親は、3人の息子が音楽の基本を獲得し、少なくともアマチュア水準を超えたピアノ演奏ができると主張した。中でも末弟のグリゴリは音楽に最も興味を示し、わずか4歳で耳で聞いた旋律を演奏することができた。

著しく優秀な少年がいるという話は、モスクワのアレキサンダー・ゴルデンヴァイセルに届いた。

1910年に、ギンスブルクの父はゴルデンヴァイセルに息子を紹介した。そしてゴルデンヴァイセルは直ちに、彼に音楽とピアノ演奏を教えることに決めた。グリゴリの父の死の後、ゴルデンヴァイセルは少年の親代わり同然となった。

ゴルデンヴァイセルは、基本的テクニックの獲得に特別な努力を置いた。そしてハノンの練習を繰り返させた。すなわち、どの鍵盤にも移行できる技術、複雑なリズム・テンポの変化と、ダイナミックスのメリハリである。

ギンスブルクは、13才でモスクワ・コンセルバトワールに受け入れられた。最初は下級クラスだったが、すぐにゴルデンヴァイセルのクラスのフルタイムの学生になった。

ギンスブルクは、1922年に18歳でピアニストとしてのデビューをした。彼は有名なモスクワ“指揮なし”管弦楽団とフランツ・リストのピアノ協奏曲を弾いてセンセーションを巻き起こした。

Persimfans was a conductorless orchestra in Moscow in the Soviet Union that existed between 1922 and 1932. Also called “First Symphony Ensemble of the Moscow City Sovietby L. M. Tseitlin, a professor at the Moscow Conservatory. In 1927, Persimfans was recognized as an Honored Ensemble of the Republic.

1924年春に、ギンスブルクは金メダルを得てコンセルバトワールを卒業した。

その年の10月24日に、ギンスブルクはシューマンの謝肉祭とリストのドン・フアンを曲目とするリサイタルを開いた。

1924年から1928年の間にゴルデンヴァイセルの指導下にコンセルバトワールの大学院生として研鑽を積んだ。そして、アシスタントとして教師のキャリアを開始した。

1927年は、彼に大成功をもたらした。ワルシャワで行われた第一回国際ショパン・コンクールで第4位となったからである。

彼は、ワルシャワ聴衆の人気者となった。彼は1位であるべきだと考えられた。

スタニスラフ・ニーヴィアドムスキー教授はギンスブルクの コンクールでの演奏を適切にもこう表現した。

「彼の指からすべてがやってくる。その音は最も洗練され完成されている。そればかりでなく、たとえばイ短調のマズルカにおける比べようのない明快さ、ポロネーズにおけるアクセントの見事さを表すのには、洗練というだけでは不足だ。ギンスブルクはコンクールの最優秀者と肩を並べる位置にいる」

ギンスブルクはまた著名なワルシャワの批評家でありピアニスト兼作曲家でもあるピョートル・リテル教授にも気に入られた。リテルはこう書いている。

「この若いピアニストは他のコンクール参加者と比べ際立っている。輝くようなテクニックばかりでなく、その精確さ、フレイジングの絶妙さは群を抜いている。彼のショパンが最も理想に近いということを誰が否定できようか」

ワルシャワにおける成功の後も、ギンスブルクはソヴェート国内でンサートのキャリアを続けた。

1936年になって、彼はポーランドでコンサートを許された。その年の1月、彼はワルシャワ・コンセルバトワールでリサイタルを行った。

(この後、文章はいきなり飛ぶが、ずっと国内に留まっていたということだろう)

1956年に、ハンガリーでのリスト-バルトーク・フェスティバルに出演した。1959年にチェコスロバキアで演奏した。そして、1961年にユーゴスラヴィアの演奏旅行で確たる名声を博した。

その年の秋、彼はポーランドで演奏することになっていた。その際にポーランド放送でリサイタルをおこない、ショパンの故国で、練習曲の全曲録音を行う予定であった。残念なことに、彼は突然病を得て入院した。そして、まもなく死んだ。

ギンスブルクは、1935年から1959までモスクワ・コンセルバトワールの教授であった。教え子にはGleb Axelrod, Sergei Dorensky, Alexei Skavronsky and Daniel Pollack がいる。

ギンスブルクの幅広いレパートリーの一部分だけがレコードとして残されている。彼の素晴らしい録音の中で、特筆すべきは以下の曲である

リスト: Fantasie on Two Motives from Mozart's Le Nozze di Figaro, Re'miniscences de Don Juan, Re'miniscences de Norma, Rigoletto Concert Paraphrase, Concert Studies, Hungarian Rhapsodies etc.

アントン・ルビンシュタイン: Piano Concerto No. 4 in D minor

ショパン: Etudes Op. 25, Rondo in C minor, Ballade in F minor, Polonaise in A flat major etc.

グリーグ: Sonata in E minor

他に Godovsky, Medtner, Miaskovsky, Schumann, Weber, Scriabin and Johann Strauss Jr. らの曲が残されている。

ギンスブルクはいくつかの concerto fantasies を書いている。