ありました。USBメモリーに残っていました。最終版ではないが、とりあえずこれでお茶を濁しておきます。

全文は、いずれホームページの方にアップロードしようと思います。これを機会に、南部アフリカの年表(南部アフリカ(南アフリカ,ナミビア,アンゴラ,モザンビーク,ジンバブエ,ボツワナ,ザンビア)も南ア、アンゴラ、モザンビークに分けようかと思います。


1971年7月 ザンビアとの関係修復。ザンビアの高級使節団がZombaで事務所を開設することが許される。

1971年 バンダ、終身大統領となる。バンダは規則的に内閣を改造し、政敵の出現を防いだ。20万人以上を裁判もなく収監した。バンダは在任中に少なくとも3億2000万ドルを私財として蓄えた。

1971 マラウイ・ポンドにかわり、クワチャ(kwacha)が公式の通貨になる。1クワチャは、100タンバラに等しい。

1973 9月 バンダ政権、新聞とラジオ放送を統制下に入れる。バンダに批判的な国際報道をシャットアウト。『間違った情報』(国家批判)を外国人に広めることを終身刑とする。

1974年7月 ポルトガル政変(カーネーション革命、あるいはリスボンの春)が起こる。ポルトガル新指導部は、反革命派を支持し、その攻撃基地を提供したとしてマラウィと断交。

1974 バンダ大統領、首都をゾムバ(Zomba)からリロンゲ(Lilongwe)に移転すると発表。ブランタイア(Blantyre)への移動を望んでいた白人植民者の間に動揺が広がる。

1975 1月1日 リロングウェは、公式にマラウイの新しい首都になる。

1978 独立以来最初の議会の選挙。しかし全ての候補はバンダ大統領によって選ばれたMCPのメンバー。バンダは候補資格として英語に堪能であることをもとめた。

1980年4月 9つの南部アフリカ諸国(アンゴラ、ボツワナ、レソト、マラウイ、モザンビーク、スワジランド、タンザニア、ザンビアとジンバブエ)によって、南部アフリカ開発調整会議(SADCC)が設立される。(92年に南部アフリカ開発コミュニティ(SADC)に発展改組)

1980年代初期 サイモン&ガーファンクルの 「いとしのセシリア」をラジオ放送で流すことを禁じた。愛人のセシリア・タマンダ・カザミラとの関係が悪くなり、セシリアに帰ってきてくれるよう懇願する内容の歌詞が気に食わなかったためとされる。

1983 第2回国会選挙。今回も全てMCP候補者で指導者になりそうな人物は注意深く取り除かれる。選挙中に4人の反対活動家が殺される。

1986年7月 モザンビーク政府、反政府ゲリラ「モザンビーク反乱軍」(Renamo)を援助したとしてマラウィを非難。

1986年10月 モザンビークのマシェル大統領が飛行機の墜落事故で死亡。バンダによる陰謀との疑いが高まる。首都マプトのマラウィ大使館は民衆の攻撃を受ける。

南ア政府は、墜落現場で発見された文書を示し、モザンビークとジンバブエによってマラウイに対する陰謀が企てられていたと主張。

1986年12月 マラウイとモザンビークが安全保障合意に調印。対RENAMOで共同することとなる。RENAMOの人質50人がマラウィで解放され、モザンビークに帰還。

1987年2月 バンダ大統領、アパルトヘイト政策を続ける南アフリカとの貿易・政治対話ボイコットをもとめる近隣諸国の要請を拒否。

1987年4月 バンダ大統領、国会を解散する。翌月行われた選挙は、みたびMCP候補が独占する。

1987年6月 バンダが内閣を改造。3人の著名な大臣が解任される。

1987 11月 モザンビーク軍がマラウイの民間航空機を撃ち落とす。10人が死亡。マラウイとモザンビークの間の緊張は高まる。

1988年1月 バンダ大統領は、もう一度議会を解散。

1988年7月 モザンビークのJoaquim Chissano大統領、国際メディアに対し、「RENAMOの基地がマラウィにあるとの報道は正しくない」と語る。

1988 9月 南アフリカのボタ大統領が、マラウイに公式訪問をする。

1988 12月 マラウイとモザンビーク、2年間のモザンビーク内戦中に逃れた65万人の難民の帰還協定に調印。

1990 マラウィをかんばつと不作が襲う。

1990年 代初期 テレビ放送が許される。

1991年 イギリス政府がバンダ大統領の圧制を認めないと表明。

1992年 国内のカトリック教会が離反声明。司教は公的にバンダを有罪と宣告し、抗議のデモ行進を奨励。人権状況を憂慮した多くの援助提供国が、援助を一時停止する。

1993 バンダ大統領が重病となる。バンダは終身大統領をあきらめることに同意する。

1993年年6月14日 国際的圧力を受け、複数政党制移行への国民投票が実施される。3分の2近い得票を得て多党制導入が決定される。

1993年 悪名高い服装制限が解除される。

1994年5月17日 大統領選挙が実施される。統一民主戦線 (UDF)代表のバキリ・ムルジ(南部イスラム系ヤオ族出身)がバンダに圧勝。バンダは政界からの引退を表明(この時実に98歳!)

1994年5月21日 バキリ・ムルジ(Bakili Muluzi)が大統領に就任。直ちに政治犯を解放し言論の自由を確立する。

1995 バンダ、1983年に4人の反対政治家の殺害を支持したとして告訴されるが無罪となる。

1997年11月25日 バンダ、南アフリカ共和国の病院で肺炎のため死去。101歳であったと言われる。マラウィは国葬を行う。

1997年 女性活動家バンダ「持続可能な飢餓撲滅のためのアフリカ賞」を受賞。

1999年6月15日 ムルジ大統領が民主同盟とマラウイ会議党の候補を破り再選される。

選挙後の大規模暴動: 北部のキリスト教徒は選挙結果に抗議し、ムルジの出身部族であり、イスラム教徒であるヤオ族へのテロを行う。200箇所近いモスクが放火の被害を受ける。