1929 African National Churchが設立される。

1934年2月24日 Bingu wa Mutharika (後の大統領)が生まれる。

1944 民族主義者がニアサランド・アフリカ会議を創設。最初の国民議会を開く。植民地の最初の政治運動になる。

1951年 英国政府は、南ローデシア植民地主義者の主張を受け、Nyasalandと南北ローデシアを結合する計画を発表する。三つの地域が連邦を形成する。3つの植民地の大多数のアフリカ人は連邦化に反対。白人の自由主義者も行動を共にする。

1953年8月1日 シレ高原のチョロ地区で連邦化に抗議する暴動が起こる。

10月23日 ニアサランド、既存の南北ローデシア連邦に組み込まれローデシア‐ニアサランド連邦共和国(中央アフリカ連邦)となる。連邦は、1963年まで続く。3つの地域で民族主義者が立ち上がり抵抗を続ける。

1958年7月29日 Nyasaland African Congress (NAC)のバンダ博士が帰国。Nyasaland独立運動のリーダーに就任する。南北ローデシアとの連邦を拒否し、独立をもとめる。彼は、『黒人のメシア』として有名になる。

Hastings Kamuzu Banda 公式には1896年生まれ。ニアサランドで初等教育を3年間受け、南ローデシア、南アフリカなどで働きながら中等教育を受ける。教会の援助を受けてイギリスに留学。スコットランドで医学教育を受け、テネシー州ナッシュビルのMeharry Medical Collegeで学位を取得。1945年にはロンドンで開業した。ロンドンの医院ではエンクルマやケニヤッタとの交友関係を築いた。

1959年3月3日 アフリカ会議と英国当局の支持者の間で暴力的な抗議が発生。非常事態が宣言され、アフリカ会議党は非合法化される。バンダを含む反対リーダーは逮捕される。

9月 ニアサランド・アフリカ会議、マラウィ会議党 (MCP) と改称。バンダは北ローデシアのグウェロ刑務所に勾留されたまま党を指導。

1960年4月 バンダが出獄。「連邦」の憲法改革に関するロンドン会議に招致される。

1961年7月 英国当局は、納税アフリカ人にフランチャイズを与え、新しい立法議会をつくる行政改革に同意する。

1961年8月 立法議会選挙。バンダのマラウィ会議党 (MCP)は、投票の94%を獲得する。

1962年11月 ロンドンで第2回目の憲法協議会。英政府はニヤサランドに自治権を与えることに同意。

1963年1月 Nyasalandは自主的な自治政府を認められる。

1963年2月1日 自治政府が発足。バンダが首相に就任。

1963年5月 自治領政府、新たな憲法を発布。完全な自治権の獲得を目指す。

1963年12月31日 ローデシア‐ニアサランド連邦共和国が解散。ニヤサランドは連邦から完全分離。

1964年7月6日 マラウイは英連邦の一国として独立を成し遂げる。直前の総選挙ではマラウイ会議党以外の出馬が無かったため、事実上の一党制でスタート。バンダが総督に代わり国家元首となる。バンダは首都を Zombaに移転。

1964年9月 バンダ、外相、内相、教育相をふくむ5人の閣僚を排除。彼らは政府へのアフリカ人登用が少ないとし、バンダを批判した。

1964年 年末までにバンダは400人以上の反対活動家を逮捕する。

1965年2月 Fort Johnson が最近解雇された大臣を支持するグループによって急襲される。襲撃隊は政府軍によって撃退される。反乱部隊と元大臣たちは国外に逃げる。

1966年7月6日 マラウイ、英連邦を離れマラウィ会議党の単一政党国家「マラウィ共和国」に移行。バンダは共和国の大統領になる。反対グループは禁止され、リーダーたちは拘留される。マラウイでの人権状況に対し国際的な非難が高まる。

1967年9月 バンダ政府は南アフリカとの外交関係を樹立。 南アフリカの白人の少数党内閣を許すなという近隣のアフリカ諸国による呼びかけは無視される。

1967年10月 Yatuta Chisza前内相、反乱部隊を率い国内に侵入。反乱は破られChiszaは殺される。マラウィ会議党は民兵組織であるYoung Pioneers を結成し国内弾圧にあたる。

1968年9月 南アフリカに励まされて、バンダはモザンビーク、タンザニア、ザンビアとのあいだで境界紛争を開始する。彼はニアサ湖の全てとSongue川の北方地域の領有権を主張。

1968年 バンダ(この時すでに72歳)、独裁色を強め、度外れの人民抑圧を開始。
 

バンダは、常に自身を"終身大統領ングワジ・ヘイスティングズ・カムズ・バンダ博士閣下"]と呼称させた。全ての商業ビルにはバンダの公式写真を壁に掛けることが要求され、その他のポスターや時計、絵画など一切のものを、バンダの写真より上部に設置することが禁止された。
国民の服装を制限。女性に対しては太ももを隠すように指導し、ズボンの着用を禁じる。長髪の男性は反大統領を意味するとし、逮捕後、強制的に髪を切る。
インド人はゲットーに押し込められた。バンダ大統領を非難する発言は厳しく禁じられ、これを破ったものは多くが追放や投獄された。マラウイ社会主義者同盟の指導者アッタチ・ムパカチは暗殺された。(ウィキペディア)

1970年5月 南アフリカのフォルスター大統領がマラウイを友好訪問。

1970 バンダが終身大統領になるのを許す憲法改正が行われる。1970年から始まったマラウイ会議党の一党支配によって支配を強化。