オランダの話を勉強しているうちに思った。
人はみな、カネのために狂乱している。あたかもカネが支配者であるかのように欲に眩んだ人々を駆り立てている。
カネのためには人殺しもすれば戦争もする。寝ている病人の布団を引き剥がすようなことも平気でやってのける。カネのためなら心も体も、命さえ売る。
しかしカネは支配者ではない。ただの交換のための道具だ。昔なら同量の金と交換できたが、いまではただの紙切れにすぎない。
「イワシの頭も信心から」というが、世界中のみんなが、キリストを信じようと、アラーの教えを信じようと、とにかくまずもって敬虔な拝金教徒なのだ。
こういうのをマルクスは物神崇拝(フェティシズム)と呼んだ。

今の世界はそうやって成り立っている。

ではカネが支配者ではなく、支配の道具にすぎないとすれば、この世を支配しているものは何なのだろう。

現象的には、はっきりしているのは物質的富である。お金は物の代用として、物と物の交換を仲立ちしている。

世の中には、少なくともカネの量と同等以上の交換可能な物質的富がある。

カネの量と富の量の関係は複雑で、いろいろ錯綜するが、長期的にはバランスがとれている。

しかし、それはカネを通して物と物の交換がぐるぐる回っている間の話であって、最終的にはそれらは消費される。

富はいずれは消えてなくなるのである。

だとすれば富が支配者ということはありえない。富も消費するための道具にすぎない。

考えてみれば、カネも、元々は金であり。生産物である。それがいろいろな約束事で小判になり、硬貨になり、紙幣になったのだから、カネの魂は金であり、それ自体が富である。

しからば富というものは何なのだろうか。それは人間の欲望を満たすためのものである。マルクス風に言えば「使用価値」である。

だから、カネにしても、その実態たる物質的富にしても、その本体は人間の欲望なのだ、といえるのではないだろうか。

人間の欲望が富という形をとって物質化される。そして富の代替物としてのカネという形で世の中を駆動していく、ここに世の中の本体があるのではなかろうか。

つまり世の中を支配し、駆動するのはさまざまな個人のさまざまな欲望の集合体であり、それがカネ、あるいは「交換可能な物質的富」という形をとっているのであろう。

では欲望とは何か。