ありがとうヴァシリ・アルヒポフ、核戦争を止めてくれた人

エドワード・ウィルソン

「ガーディアン」 2012年10月27日

もしあなたが1962年10月27日前に生まれているならば、ヴァシリ・アルヒポフはあなたの命の恩人です。50年前、アルヒポフは、ソ連の潜水艦B-59の先任将校でした。そして搭載された核魚雷の発射を拒否したのです。

1962年10月27日は歴史上もっとも危険な日でした。この日、アメリカの偵察機U-2がキューバの上に撃ち落とされました。もう一機のU-2機はソビエトの領空内に迷い込んでいました。これらのドラマが極限を越えて、人類を危険な方向へと送り込んでいました。

そのさなか、アメリカの駆逐艦ビール号は水中のソ連のB-59号に向けて水雷を投下し始めました。このB-59号は核搭載潜水艦だったのです。

B-59号の艦長バレンティン・サヴィツキーは、水雷が非破壊性の訓練弾であることなど知る由もありませんでした。それはB-59に浮上を促す警告発射だったのです。ビール号は米駆逐艦隊に加わっていました。この艦隊は水中のB-59をより多くの爆薬で連打するために集まってきました。

追い詰められたサヴィツキー艦長は、彼の潜水艦の命運が尽きた。そして、第三次世界大戦が始まったと思いつめてしまいました。

彼は搭載した10キロトン相当の核魚雷の発射準備を命じました。目標は空母ランドルフ号でした。この巨大な航空母艦は機動部隊の旗艦でもありました。

もしB-59の魚雷がランドルフを蒸発させたら、核の雲はたちまちのうちに海から陸地へと広がっていたでしょう。最初の目標は、モスクワ、ロンドン、イーストアングリアの空軍基地とドイツの軍事基地群でした。

そして次の爆弾のウェーブは世界の「経済的目標」(一般市民の婉曲な表現)を一掃していたでしょう。イギリスの住民の優に半分は死んでいたでしょう。

その間に、ペンタゴンではSIOP(一方向性統合行動計画)が発動し、ストレンジラブ博士のハチャメチャな「神々の黄昏」の音楽に合わせて「最後の審判」のシナリオが始まったでしょう。

5,500の核兵器が発射され、アルバニアや中国のような非交戦国(非友好国ではあるが)をふくむ1千の目標に向かってミサイルが飛び始めたでしょう。

ではアメリカ自身に何が起きることになったのか、それは不確実です。

フルシチョフがキューバにミサイルを送り込んだ真の理由は、ソ連に信頼に足る長距離ICBMが不足していたからです。予想しうるアメリカの攻撃に対抗するにはソ連は力不足でした。

したがってアメリカの犠牲者の数がヨーロッパの同盟国よりはるかに少なかった可能性は高いと思います。

事実はこういうことです。つまり、英国と西ヨーロッパは、ペンタゴンの住人にとって消費されるべき犠牲者として計算されていたということです。これが、口にはできない冷戦の本質だったのです。

あれから50年が経ちました。いまキューバのミサイル危機からどのような教訓が導かれるのでしょうか?

そのひとつは、政府は危機において統制を失ってしまうということです。

ロバート・マクナマラ国防長官にとって最悪の夢は許可無き核攻撃の開始でした。マクナマラはすべてのICBMに行動許可リンク(PAL)の着装を命じました。しかしPALがインストールされたとき、戦略空軍司令部は全てのコードを00000000にセットしました。危機において速やかな発射を妨げないようにするためです。

これは笑い話ではありません。核兵器のセキュリティーというのは、どんな時にも、どんなレベルでも、結局は人間の問題(human issue)だということです。

ある時、歴代もっとも正気の大統領であるジミー・カーターは核の発射コードを入れ忘れたまま、スーツをドライクリーニング屋に出してしまいました。

冷戦は終わりました。しかし、米国とロシアの熱核戦争の基盤は依然として残されたままです。そして超大国の間の核による交戦の危険は、いまもまさに現実そのものです。

1995年にロシアの早期警戒レーダーは、ノルウェーの天気ロケットを発見しました。彼らはそれをアメリカの潜水艦から発射される弾道ミサイルと見間違えました。レーダーサイトから送られた非常事態信号は、エリツィン大統領の「Cheget」(発射コードにの入った核のスーツケース)に送られました。

エリツィンは、おそらくウォッカのグラスを手元に置いていたに違いありませんが、彼が報復的な攻撃をするかどうかを決定する時間は5分足らずしかありませんでした。

ノーム・チョムスキーはこう言っています。「核兵器が存在する限り、人類の生き残りのチャンスは殆どない」

長期の危険分析に関する研究のすべてが、このチョムスキーの主張を支持しています。

プラフシェアーズは19,000発の弾頭が今日世界にある、そして、内18,000発は米国とロシアの手中にあると推計しています。正確な数がどうであれ、米・ロの核兵器のみが全人類の生命をトータルに破壊できる能力を保持していることは間違いありません。

軍事評論家キャンベル・クレイグとジャン・ルジツカは次のように指摘しています。

「なぜ、イランか北朝鮮は核不拡散(non-proliferation)を尊重しなければならないのか? 彼らにそうせよと教え諭している超大国が、このような巨大核兵器を所有しているというのに。それは不可解だ」

とりわけ、キューバのミサイル危機は、核という兵器そのものが問題のタネであることを示した。

イギリスは、現在「核軍縮レース」をリードすべきポールポジションにある。

2009年、タイムズへの手紙の中で、ブラモール陸軍元帥、ラムスボサム将軍、ヒュー・ビーチ卿はトライデント計画を「まったく無益な計画」と非難した。

ある戦略システムを放棄することは将軍たちにとっては造作も無いことかもしれない。しかし政治家にとってはそうは行かない。世間では核兵器を「強者」の漠然とした証として同等視している。政治家はその“世論”を恐れている。

トライデント計画を取りやめることは、財政危機に悩む財務省に250億ポンドもの予期せぬボーナスを授けることになるのだ。それだけ住宅融資に回せば、まずまずの家を100万戸も建てるための融資ができるのだ。

アルヒポフの話に戻リましょう。

「第三次世界大戦を開始しない」という決定は、クレムリンで行われたのでもなく、ホワイトハウスで行われたのでもなく、潜水艦のうだるように暑い制御室で行われました。

B-59号の核魚雷の発射は、乗り組んだ先任将校3人の同意を必要としていました。艦長をふくむ2人は艦長の判断を認めました。アルヒポフはただ一人同意を拒否しました。にもかかわらず、どうして核魚雷は発射されなかったのか。

制御室の議論においてアルヒポフへの評価が高かったことが、重要な要因であったことは確かです。

その前の年、この若い士官は、過熱した原子炉から潜水艦を守るため自らの身体を晒しました。そして大量の放射能を浴びました。その被曝が結局、1998年の彼の早すぎる死に関与したと思われます。

ということで、私たちは本日10月27日、私たちのグラスを掲げます。そしてアルヒポフの思い出に乾杯するのみです。

ありがとう、ヴァーシャ…


たまたま知った記事です。

そんなに難しい英語ではないので、大きな誤訳はないと思います。

平井俊顕 (ひらい・としあきToshiaki Hirai)ブログ

というところで紹介されていました。

ガーディアンの該当ページは下記で、まだ生きています

http://www.theguardian.com/commentisfree/2012/oct/27/vasili-arkhipov-stopped-nuclear-war

殆どの人が知らないのではないでしょうか。

英「ガーディアン」紙の記事で、裏もしっかりとれていません。目下のところは「ガーディアンを信用しますか?」という条件付きです。


すみません。英語版ウィキペディアにかなり詳しい紹介がありました。

Soviet submarine B-59, in the Caribbean near Cuba.

ここではもうちょっと辛口の評価になっている。そろそろエリツィン状態なのでまた明日。

Vasili Arkhipovでグーグル検索したら6万件近くヒットします。もはや英語圏では有名人の一人です。(ちなみに鈴木頌は8千件)

The Man who Saved the World - WWIII (Vasili Arkhipov)

というかっこいい動画もありました。MerschProduction の製作のようです。映画化されたのでしょうか?

調べたら、これは予告編で、本編は下記にありました。

Watch the Full Episode

全53分で、再現シーンもふくめたドラマ仕立てのセミドキュメンタリーです。おそらくテレビ番組として製作されたのではないでしょうか。

NHKスペシャルあたりで放映してくれればいいのですが。