Havana.  April 26, 2012

チリ共産党、100年の闘い

ホアキン・リベリ

 

チリ共産党100年の歴史は、南米諸国における自由と社会正義の願いを実践に移すための鍵を示している。

右派セバスチャン・ピニェラ大統領の政府に挑戦した大きい学生デモンストレーションの起こった昨年、その名声はさらに高まった。

その運動の先頭に立ったのは共産青年同盟の書記長カロル・カリオラ、そして共産青年同盟の執行委員で、全学連の副委員長でもあるカミラ・バジェホである。

(カミラ・バジェホとチリ学生の闘いについてはこのブログでも以前紹介している)

何千もの学生は、無償で質の高い教育を要求し、野蛮な弾圧にも退かなかった。

共産党はまた、労働者の要求を支持し、政府のネオリベラリズム政策への大衆抗議を支持した。そして憲法の改正を呼びかけている。

 

1912年6月12日、社会主義労働者党として創立されてから100週年となる日が近づいてきた。そしていま共産党は好位置につけている。

 

その党は印刷工ルイス・エミリオ・レカバレンによって組織された。そして北チリの都市イキケの30人の鉱夫と労働者とが加わった。その党は新聞“El Despertar de los Trabajadores”(労働者の目覚め)のオフィスで結成された。

1922年1月2日、第二回目の大会でその名は変更された。党員たちが共産主義インタナショナルに加わることを決議したからだ。

20世紀の初頭にチリを襲った危機に直面して、できたばかりの共産党は革命にたちあがれ、権力を奪取せよとプロレタリアートに呼びかけた。闘いは始められ、直ちにブルジョア支配階級の強烈な弾圧で応えられた。

数十年にわたる闘いで、チリの共産主義者は何度も激しい迫害の期間を経験した。そして地下での活動を強いられた。そして何度も何度も組織の再建を余儀なくされた。共産党員は襲撃され拘束され殺された。

有名なシンガーソングライターでマルクス主義者のビクトル・ハラもその一人だった。彼の拷問と死は、17年のアウグスト・ピノチェト独裁のなかでも最悪の犯罪の一つである。

しかしピノチェト独裁は、その残忍性にもかかわらず、チリの共産主義思想を除去することはできなかった。

 

1933年に、チリ共産党は社会党、急進民主党と労働者総同盟と人民戦線を結成した。このことはチリの政治における共産党の比重を強めた。

第二次大戦後にチリ共産党は地下活動を強いられた。地下の共産党は1952年の大統領選挙で初めてサルバドル・アジェンデを支持し闘った。そのために社会党との間で民族解放戦線、別称人民戦線が結成された。 

この統一戦線はまだ勝利を得るにはあまりに早かったが、アメリカとチリの反動勢力の厳しい反響宣伝を促すには十分だった。

共産党はふたたび戦線に復帰し、帝国主義反対、寡占層支配反対の綱領を掲げ、社会・経済の変化を訴えた。そして1958年に合法活動を認められると、人民行動戦線(FRAP)を結成しアジェンデを支持した。58年の選挙ではアジェンデと左翼に対する支持は大幅に増加した。しかし右翼の大規模な宣伝キャンペーンの前に敗れた。

64年の選挙ではアジェンデはこれまでになく有望だった。しかしこのままでは敗北すると見た右翼は、自らの候補を辞退させキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ候補の支持に回った。フレイは扇動的なスピーチと改革の公約を乱発することで、アジェンデから投票をもぎとった。

1969年に、再び、もう一つの連立がつくられるまで、階級闘争は強くなり続けた。1970年大統領選挙のため、共産党をふくむ人民連合が結成された。その綱領は民衆を引きつけた。人々はブルジョア政党の約束違反に飽き飽きしていた。

アジェンデは勝利した。しかし銅山の国有化など貧しい民衆の利益を図るための手段は、アメリカにとって受け入れがたいものだった。それはまた寡頭支配層とピノチェトの率いるファシスト軍にとっても認めがたいものだった。

そしてピノチェトらは1973年9月11日に、CIAの組織した流血のクーデターをひきおこした。クーデターは何千人もの死者と行方不明者と拷問の被害者を残した。共産党書記長ルイス・コルバランも捕らえられた。中央委員のほとんどが亡命を強いられた。

それは組織の真空状態と崩壊をもたらした。そして組織の再建を余儀なくされた。ほとんどが無名の党員からなる指導部が、地下で組織を再結集するために活動した。はやくも1974年、国内指導部は機能し始めた。

1990年代の初めに、ピノチェト退陣にともなって、党の指導部は国内での闘争の再開を決定した。法的にはピノチェト時代の残滓やさまざまな制限があったが、それを乗り越えるべく挑戦を始めたのである。

とくに憲法は共産党の政治的な影響を制限し、議会への参加を防ぐように作られていた。それにもかかわらずチリ共産党はすべてのレベルの選挙に参加することを決定した。

1999年、党書記長の闘士グラディス・マリンが大統領に立候補して、困難な状況のなかで3.19% を獲得した。

2005年、彼女は病に倒れ、もう一人の傑出した革命家、ギジェルモ・テイジェルが党の指導部を引き継いだ。

その年に行われた議会選挙で共産党は民主連合との協定を結び、三人の下院議員の当選を実現した。ウーゴ・グティエレス、ラウタロ・カルモナ、そしてテイジェルである。

共産党はまた、わずか3人の議員団でピノチェト独裁の制定した法律に果敢な闘いを挑んだことで威信を高めた。それらの法律はネオリベラリズムの立場に立ち、国家の天然資源を略奪する多国籍企業と国内寡占層を保護するものであった。

党の現在の任務の一つはいわゆる“binominal elections”の排除である。これは一種の法的トリックで、独裁政権時代に左翼が議会に代表を送り込むのを防ぐために創りだされたものだ。

Wikipedia には長々と説明が書かれているが、読んでもさっぱりわからない。最後の「共産党はこのために1議席も取れなかった」というところだけは分かる。

that rewards coalition slates. Each coalition can present two candidates for the two Senate and two lower-chamber seats apportioned to each chamber's electoral districts. Typically, the two largest coalitions split the seats in a district. Only if the leading coalition ticket outpolls the second-place coalition by a margin of more than 2-to-1 does the winning coalition gain both seats. The political parties with the largest representation in the current Chilean Congress are the centrist Christian Democrat Party and the conservative Independent Democratic Union (Unión Demócrata Independiente). The Communist Party and the small Humanist Party failed to gain any seats

先住民であるマプーチェの人々はつねに党を無条件に支持してきた。

党は学生の弾圧に反対している。そして生活水準の改善を求める労働者のストライキを支持している。

それらすべての活動は無産者の解放とチリにおける社会正義の実現に捧げられている。

チリ共産党は勝利を確信し、この路を歩み続けるだろう。


チリとクーデターについての知識が行き渡っているラテンアメリカで、チリ共産党の100年の歴史をこれだけのスペースにまとめるとは、グランマもいい度胸だと思います。