堺県の歴史を年表にしてみた。

堺市の概要

おそらく堺市あるいはその外郭団体が立ち上げているものと思われる。

そこに堺県の歴史というページがあってかなり詳しく記載されている。直接ご覧になっていただければよいのだが、ここでは年表風にまとめておく。

ウィキペディアの記載もここに加える。

合併の経緯については福山昭「大阪府の成立と地方自治の原型」が詳しい。


慶応3年 堺奉行が廃止され、大坂町奉行が堺を管轄。

明治元年(1868年)2月15日 「堺事件」が発生。(慶応4年との記載もある)

大阪湾内測量中に上無断陸したフランス軍艦デュプレー号の乗員に向かって、堺警備中の土佐藩藩兵が発砲する。十数名の死傷者が出たとされる。

フランス公使ロッシュは関係者の処刑と賠償金など五箇条の要求を突きつける。。

日本側は、発砲責任者8番隊長西村左平次をはじめ10人の処刑で決着を図る。(一説では警備隊長箕浦猪之吉以下二十名の土佐藩士の切腹)

市内妙国寺本堂前庭で刑が執行される。11人が切腹をし終えた時点で、立ち会いのフランス側士官が処刑の中止を申し出る。

明治元年5月 摂津・河内・和泉の三国が大阪府として発足

明治元年6月22日 政府は大阪府から和泉国を分離して、堺県を設置。初代知事は官選の小河一敏。

堺事件を機に政府内に堺の地勢上の重要性への認識が高まったためとされる。堺は県都として近代化に着手。

明治元年8月 市民の要請を受け郷学所が再興される。堺県の郷学校、県学の先駆けとなる。

明治元年 近畿地方を大凶作が襲う。さらに大和川が氾濫。小河知事は“公平至誠”の精神で、困民救済政策を遂行。土木事業を起こし、県内でのみ通用する小礼を発行。

明治2年(1869年) 河内県、紀伊の国の高野山領などを堺県に編入。

明治3年(1870年) 工部省が、日本で最初の煉瓦工場となる鉄道寮堺煉瓦製造所を設立。同じ年、日本の近代紡績工場第1号となる戎島紡績所も開設される。

明治3年8月19日 小河知事が明治政府と対立し専断の罪で謹慎、免官となる。税所篤が第二代県令となる。

明治4年7月 廃藩置県がおこなわれこれまでの県と藩の混在が解消される。 3府302県が成立。

明治4年(1871年)11月22日 第1次府県廃合。3府72県に統合される。堺県、伯太県、岸和田県、吉見県、丹南県が統合され、改めて堺県が発足。

明治5年(1872年) 堺市街に区制が引かれる(堺区)。

明治5年4月 堺県市郡制法が公布される。29の学区に郷学校と出張所を設立し就学をうながす。

学校を建てるは教化を盛し人材を教育するためである。
早く旧慣を一洗し、将来の有益を察して、各々その子を学校にいれて教育を加え、文明開化の域に進歩するべきこと

明治6年(1873年) 日本初の公立公園となる浜寺公園が開園。港に続く白砂青松の海辺を生かした近代的なアーバンリゾート地として発展する。

富裕層の別荘が松林の中に建ち並んだ。与謝野(鳳)晶子と鉄幹がそこでの歌会で恋に落ちたとされる。

明治6年4月 学制発布を受け、郷学校を小学に再編。この年だけで64の小学が開校、さらに50校増設を布達する。

当時の就学率は男子6割、女子3割。一学校あたりの生徒数は150人前後、教員数は3,4人だった。

明治7年(1874年) 堺県に和泉国が併合される。堺市は堺県和泉国第一大区に統合される。

明治七年(1874年)5月、堺県により、子女教育の場として女紅場が設置される。与謝野晶子も学んだ。

下等小学を卒業した13歳以上の女子生徒を対象とする。紅業とは裁縫、機織り、養蚕、製糸の業を指す。他に読書、算術、作文を教えた。堺区内だけで5校を数えた。

明治9年(1876年) 第2次府県統合。府県は38にまで整理される。奈良県が堺県に合併される。各地で復活・分県運動が盛んとなる。

明治9年(1876年) 南宗寺境内で堺博覧会が開かれる。

明治10年 日本人の設計した洋式灯台(木造六角)が点灯される。

明治12年 境県、陸軍省の砲台跡を借り受け、大浜公園を開設。

木造3~4階建てのりっぱな料理旅館が軒をならべ、おいしい活魚料理に舌鼓をうち、三味線の音が響いた

明治13年(1880年) 堺市(第一大区)、郡区町村編成にともない堺区と改称される。

明治14年(1881年)2月7日 第2次府県統合。に伴い堺県が廃止され、大阪府に合併される。

当時大阪府は府域が極めて狭い上、銀目廃止令による両替商の相次ぐ倒産や大名貸の不良債権化による経済の地盤沈下に直面していた。これを救済し「府」にふさわしい規模にするために行われたと考えられている。(Wikipediaによる)

大阪府が堺県を合併した理由 1.府域が狭いため堺県を併し、京都・兵庫との均衡を保つ。2.府への国庫補助がなくなり、地方税に一本化されたため、府域の狭い大阪が財政難になる。

ちなみに、合併当時の人口は大阪55万人、堺県が94万人。地租は大阪が58万円、堺県が150万円だった。(福山昭書による)

明治14年(1881年) 大阪府知事は堺県の廃県に伴い、ただちに堺区の廃区と郡部への編入を内務卿に建議する。

内務卿の判断で廃区は免れたが、大阪四区(東区・西区・南区・北区)より格下の扱いとなり郡部に編入される。

堺県廃止後、堺区は発展の基盤を失い、堺港築港計画は流産し、松方デフレの影響もあって衰退。

明治19年 正木林作、養蚕伝習場を開設。養蚕製糸業の振興に尽くす。

明治20年(1887年)3月 大阪府知事に対して堺区の区部編入を要求する。

明治20年11月 奈良県が大阪府より分離される。

明治21年(1888年)4月25日 全国で市制が施行される。堺は府下唯一の市制施行地域となる。(実施は翌22年4月)

堺区の段階よりはるかに独立性の高い「住民自治の単位」になったことで、堺市民の富が、堺市民のために使われる条件が格段に整備された。

以下略

以下は落穂ひろい

かつて堺県があり、奈良県がなかった

というページがあり、ここでは奈良の人が堺を恨んでいます。

明治4年に堺県は、さらに河内国14郡つまり淀川の南を取り込み大阪府よりも大きな県になりました。その上、明治9年には奈良県全部を統合してしまう事になります。(地図参照)。
この時点で、名誉ある 誇り高き奈良県という名前がなくなるのです。奈良の皆さんに限らず、何んとも理不尽な事だと思いませんか。(堺の人は別かな)。

大阪歴史教育者協議会のサイトに堺の近現代史を歩こうというページがあり面白い記述がありました。

堺では、妻子ある鉄幹のもとに走った晶子の評判が悪く、生家跡の歌碑が初めてで、1961年だったそうです。母校泉陽高校への歌碑建立も大変な苦労がありました。

現在は、ベルマージュ堺弐番館(JR堺市駅前)に与謝野晶子文芸館があり、与謝野晶子倶楽部の活動など晶子の顕彰や研究が盛りあがりつつあります。

1868(慶応4)年の「堺事件」ゆかりの「土佐はらきりの寺」の石碑が建っているのが妙國寺(材木町東4丁)です。
向かいの宝珠院(宿屋町東3丁)に、「土佐11烈士」墓が並んでいます。見学は、幼稚園が開いている平日のみ可能です。

堺県の知事と住民 ー地爽分権と自治の視点からー」

フォーラム堺学が主催した講演記録があって、そこにも大阪大学名誉教授の山中さんという方の講演が記載されていた。国の講禁止令に抗して堺県が策を弄して講による土地所有を温存したことが示され、それが住民自治の気風によるものだったと記されている。