小作人への告別

有島武郎

1922(大正11)年

有島といえば、子供の頃に「一房のぶどう」というお話を読んで感動した憶えがあるが、高校に入った頃に有島の小説を読んだときは、つくづく「なんてつまらない小説を書く人だろう」と思った。結構読んだんですよ、ひととおりは。

北大に入ると、なにせ校歌の作者が有島武郎で、有島ゆかりの寮があったり、暇つぶしに入った道立美術館が「生れ出づる悩み」でお馴染みの木田金次郎の常設展だったり、勤医協の病院近くに有島の旧居があったりと、なかなか縁が深い存在だった。思い直していくつか読んだが、「つまらない」という印象が変わることはなかった。

一つには感情の起伏の位相がまるっきりずれているというのがあるのだろうが、彼が世の中に真剣に向き合っている時、私にはその世界がリアル・ワールドとして感じられないからだろうと思う。たしかに彼は世の中と真剣に向き合っているのだろうが、その世の中というのは彼の頭脳を一度通過して彼なりに組み立てられた世界であり、その世界の切り取り方がずいぶんと自分勝手に思えてしまうのである。

分裂病の人は、世界が二つある。人格は分裂していない。しかし二つの世界が人格の分裂を迫る。ヒステリーの人は世界はひとつだが、対応する人格が二つに割れている。だから葛藤はない。「ちょっとは葛藤せえよ」と言いたくなるくらい屈託ない。

世界の分裂は、自己の心象内の世界が異常に肥大化するから起こる。その肥大化は、自己の心象内の世界が客観的世界からの逸脱を固定化し完成するまでに至る。

なぜそこまで至るか、その人が真面目だからである。なぜ私は有島を理解できないか、それは私が不真面目だからである。そしてそれでよかったと思う。

私は有島を読んでそう結論づけた。

 

と、例によって長い前置き。

今回読んだのは、「小作人への告別」という文章。モロに現実と向かい合っている有島を見ることができる。

 自分の農場の小作人に集会所に集まってもらい、農場の譲渡を発表した時の文章だ。小作人相手の話だから表現は難しくない。表現が難しくないだけでなく、話の中身も現実世界のことだから分かりやすい。

それだけに有島の内的世界が内包する客観世界との乖離があからさまになっている。平場に座った群衆の上の方に蜃気楼のように有島が作りだした「群衆」がいて、彼はその「群衆」に向かってしゃべっているような感じがする。