民医連が60周年だそうだ。私はその2/3を民医連で過ごしたことになる。いささか感慨新たなものがある。
思えば、民医連に入って最初に、全国新入医師の交流会で「民医連にも搾取はある」とやったものだから、論議を呼んだ。
いろいろ議論はふっかけたが、「患者は医療の主人公」という「患者の権利の章典」に首を突っ込んでから、10年くらいはかなりまじめに議論した。
当然ながら反主流派と目されるようになった。

民医連には三つの拠り所がある。一つは労働者階級であり、「勤労者医療協会」と言われる所以である。
二つ目は患者さんを中心とする地域の結びつきや、ともに病者・医療を支えようとする市民からの支持である。
三つ目は医療に関わるすべての人達との結びつきである。とくに学園でともに良き医療を目指した人たちとのつながりである。

この三つに支えられながら、みずからも「生命と暮らし、生きる権利を守る」国民的総運動の一員として、“しかるべき役割”を果たしていこうというのが民医連の枠組みである。

ただ、私の反省としては「労働者階級」という大時代な言葉を、みんなの心にストンと落とすところまで、十分に熟しきれなかったかもしれない。

前置きが長くなったが、“しかるべき役割”については、ときどきのメンバーが考えればいいことであって、創造的に取り組んでくれればよい。

肝腎なことは、運動の形態を運動の目標に置き換えてしまってはいけないということだ。

差額ベットにせよ、協同所有にせよ、“営利か非営利か”にせよ、ときどきの課題との関連ではきわめて深刻な問題だった。

今後情勢は更に厳しくなると予想され、問題はさらに深刻化する可能性が高い。さらに言えば資本主義の社会においてさまざまな形態上の矛盾が生じることは不可避的である。

そういう時に、そういう時だからこそ、我々はどこで団結するのか、その旗印は何なのかを明らかにしながら進んでいかなければならない。

繰り返すが、「非営利」はそういう旗印ではない。