2012年

2012年1月

1月3日 人民議会(下院)選挙が終了。自由公正党が第 1党、イスラム教の原点回帰を目指すサラフィー主義を奉じるヌール党が第2党となる。旧政権側はほとんど議席を獲得できず。

票の7割は農村部にある。識字率はエジプト全体で60%であるが農村では35%にとどまる。農村
部では選挙の意味も十分に理解されておらず、すべてにおいて宗教的価値に重きが置かれている(鈴木恵美論文)

2012年2月

2月 諮問評議会(上院)選挙が施行される。下院と同様に自由公正党とヌール党が第 1 党、第2党を占めた。 同胞団は「大統領選には独自候補者を擁立しない」と宣言する。

2月 外貨準備高が157億ドルまで減少。適正基準の下限に迫る。

2012年3月

3月末 同胞団、公約を覆し大統領選挙での独自候補擁立を決定。シャーティル同胞団副団長と、自由公正党のムルシー党首が立候補を届け出る。(ムルシーは控え投手)

3月 軍の大統領候補はスレイマーン前副大統領(元情報機関トップ、陸軍少将)派とシャフィーク元首相(空軍中将)派に分裂。

2012年4月

4月 選挙管理委員会による事前審査で、スレイマーン、シャーティルを含む10人が失格となり、結果として軍はシャフィーク、同胞団はムルシーに一本化される。

2012年5月

5月23日 大統領選挙が実施される。同胞団のムルシー候補が 24%の得票で首位、旧政権高官であるシャフィーク元首相が僅差で2位となるが、いずれも過半数に届かず決選投票にもつれ込む。

5月31日 サダト元大統領の暗殺以来続いていた非常事態宣言が解除される。令状なしに逮捕を認めていた同宣言は旧政権による抑圧の象徴だった。

2012年6月

6月14日 最高憲法裁判所は人民議会選挙の結果を事実上無効とする判決。これを受けて人民議会は解散され、立法権は人民議会から軍最高評議会に移譲される。大統領選挙で敗れても軍の権益を保持する狙いとされる。

6月16日 決選投票が実施される。ムルシー候補がシャフィーク候補を僅差で破る。ムルシーは「国民全体の大統領になる」として、同胞団及び自由公正党から脱退。

6月30日 ムルシーは大統領に就任。軍最高評議会の暫定統治は終結し、民政移管が完了する。敗北したシャフィーク元首相はUAE に事実上の亡命。

6月 ムバラク前大統領に終身刑判決。

2012年7月

7月 ムルシー大統領、人民議会の再招集を命じる。しかし最高憲法裁判所は再招集を認めない判断を下す。

2012年8月

8月2日 新内閣が発足。暫定軍事政権のタンターウィー(軍最高評議会議長)は国防相に留任。

8月2日 カンディール首相率いる内閣が発足。省庁出身者や大学教授など多くの知識人・技術の専門家で構成されるテクノクラート集団。

8月5日 シナイ半島で、武装集団の襲撃によりエジプト軍兵士16人が死亡。

8月12日 ムルシー大統領、タンターウィー国防相とアーナーン参謀総長を突然解任する。襲撃事件の責任を口実に強行したものとされる。両名は大統領顧問に任命される。

8月 大統領は暫定憲法を発布。立法権を軍最高評議会から自身へ移管する。これにより、大統領は行政権と立法権の両方を掌握する。

8月 政府系新聞の人事権を行使し、編集長を交代させる。以後、政府系紙各紙は政権批判を自粛。一方、政権批判を行う新聞の編集長が中傷罪で一時逮捕される。

8月 ムルシー大統領、非同盟諸国首脳会議への参加のためイランを訪問。

2012年9月

2012年10月

2012年11月

11月12日 21の政党・グループが呼びかけたデモが全国各地で取り組まれる。カイロでは同胞団がデモ隊に殴り込み、100人以上の負傷者が出る。

11月16日 カンディール首相、ガザに入りハマス政権のハニヤ首相と会談。イスラエルによる占領継続を強く批判する。ハニヤ首相は「革命後の新しいエジプトを象徴する訪問だ」と称賛。

11月22日 モルシ大統領が「権力集中宣言」。新たな暫定憲法を発布し、「新憲法制定と次期人民議会選挙の実施まで、大統領の決定は司法を含む一切の干渉を受けない」と宣言する。

11月 政権が主導する憲法制定委員会、イスラム色を強めた新憲法を起草。国民投票へと動く。

2012年12月

12月4日 非政府系紙各紙が抗議の一斉休刊。ムルシーの強権姿勢に対して抗議デモが激化。

12月8日 ムルシー大統領、新たな暫定憲法を撤回。

12月 新憲法の是非を問う国民投票が実施される。世俗主義勢力は反対票の投票を呼びかけたが、賛成多数で新憲法は承認される。

12年末 治安状態が大幅に悪化。殺人は前年比約2・5倍の1885件、強盗は約3・4倍の2611件、誘拐も約2・5倍の258件に達する。