長沢栄治さんが朝日に以下のように書いている。中長期のトレンドを踏まえた卓見だろうと思う。二つの過程が同時進行しているのである。

 今回の「政変」は、革命なのか、クーデターなのか。このよく挙げられる疑問に答えるなら、革命でもあり、クーデターでもある、ということになる。軍部の実力行使は、クーデターそのものであるが、今回の「政変」は、革命プロセスの大きな節目となる一部でもあるからだ。

現在も続いているのは「革命」なのである。これまでの世界史上の革命がそうであったように、善悪の基準で測れるものではないし、またきれいごとでは済まな い。“民主化を求めたはずの人たちが血迷って、いったい何をしているのでしょう”、というような「西側」の「上から目線」で語ってしまうのでは、何も分からな い。 

 

2011年

2011年1月

1月25日、最初の大規模デモ。

2011年2月

2月11日 18日間に亘る騒乱とデモの末ムバラク政権が崩壊。大規模デモが発生した日付をとって「1月25日」革命と呼ばれる。「国事」の運営は軍最高評議会(SCAF))に託される。

2月12日 SCAF、第4号声明を発表。自由で民主的な国家を建設すると宣言。タンタウィ陸軍元帥(国防相)を議長に指名。

2月13日 SCAF、憲法と人民議会を停止する。行政トップには前政権のシャフィーク首相が残留。SCAFの主導で「真相究明委員会」や「憲法改正草案作成委員会」が結成される。

2月16日 デモに参加した8グループが中心となり、エジプト革命理事評議会が設立される。

2月19日 ムスリム同胞団のリベラル分派ワサト党が合法化される。

2月26日 憲法改正委員会が憲法改正案を提示。①大統領の任期を6年から4年に短縮し、かつ2期に制限する。②大統領選挙に立候補できる要件を見直し。③非常事態宣言の発布・維持・更新権限の制限などをふくむ。

2月 与党国民民主党は事実上の解体。「自由公正党」(ムスリム同胞団)など多くの新党が結成された。

2月 「革命青年連合」が結成される。宗教に関係する主張は極力控えながらイスラームとコプトの融和を掲げ、革命の継続を目標とする。

2011年3月

3月3日 シャフィークに代わり、反ムバラク派のイサーム・シャラフが首相に就任。シャフィーク退陣を求めるデモは回避される。

3月19日 憲法改正案の是非を問う国民投票が成立。投票率は41%、77%の賛成で承認される。

3月28日 政党法が改正される。5千人以上の発起人署名を添えて申請すれば認可されることとなる。

2011年4月

4月8日 革命青年連合のデモ隊に青年将校グループが合流。SCAFの解散をもとめる。軍はこのデモを弾圧。

4月13日 軍は革命青年連合の圧力を受けムバラクの腐敗に対する捜査を開始すると発表。

2011年5月

5月24日 ムバラクと家族に対する起訴が決定。

2011年6月

6月6日 ムスリム同胞団の自由公正党が政党としての認可を受ける。自由公正党は13の政党に呼びかけ「エジプトのための国民同盟」を結成し、きたるべき選挙に備える。

2011年7月

7月8日 革命青年連合を中心に73の組織がタハリール広場での座り込みを開始。

7月23日 タハリール広場の青年がSCAF本部に向けデモ行進。警官隊と衝突する(アアッバーシーヤ事件)

2011年8月

 

2011年9月

9月9日 革命青年連合のデモに紛れ込んだ挑発分子がイスラエル大使館を襲撃。これを機にタハリール広場の選挙の長期化に対する不満が拡大する。

9月30日 革命青年連合の呼びかけたタハリール広場の占拠行動に、ナセリスト党やタガンムウ党、「変化のための国民団体」が反発を強める。

2011年10月

10月1日 選挙法で与野党間に妥協が成立。2/3を比例区、1/3を小選挙区とすることで合意。

2011年11月

11月 軍の憲法基本原則が明らかにされる。軍事予算は議会の審議を通さない、草案作成員会の半数は軍人とするなど。

11月18日 自由公正党の呼びかけた「基本原則に反対する100万人デモ」がおこなわれる。3日間で死者20人以上、1100人以上の負傷者を出す。

11月21日 抗議行動の盛り上がりを受けシャラフ首相が辞任。カマル・ガンズーリが暫定内閣を組織。

11月28日 人民議会選挙が始まる。地域毎に3回に分けて実施された(3回目は翌年1月)

2011年12月

12月20日 ムスリム同胞団がSCAFに対するデモを展開。挑発分子が治安部隊と衝突し、十数名の死者を出す。

年度末の経済状況: 外国からの投資及び観光収入が激減したために、経常収支の大幅赤字へとつながった。
外貨準備高が大幅に減少し、安全基準とされる輸入の3カ月分にまで落ち込んだ。
失業率は革命以前より約3%増の12.6%を記録した。
GDP成長率はリーマンショック前の7.2%、革命前の5.1%から1.8%へと落ち込んでいる。(日本大使館ホームページ)