「はだしのゲン」が子供への閲覧を中止するよう命令された。
理由は「過激・残虐な描写」があるからだという。
どこかといえば、松江市の教育委員会。

赤旗によると、

島根県松江市の教育委員会は、被爆体験を描いた漫画「はだしのゲン」が過激・残虐な描写であるとして、市内の小中学校に、学校図書館での子供への閲覧や貸出を中止するよう要請しました。

…同教育委員会は、昨年12月の校長会で、「はだしのゲン」を自由に閲覧できない閉架図書にするよう要請していました。

…松江市の共産党市議団は、「自由に閲覧できるよう制限を解除すべきだ」と述べています。


面白いなと思うのは、「漫画などを図書館に置くのはけしからん」というのでなく、内容が過激だからけしからんという理由。

たいてい教育委員会というものは「形式」で攻めてくることが多い。教育委員会が形式主義であることはその是非を別として理解できる。

しかし、内容に踏み込んでの攻撃というのは、教育委員会らしからぬ、かなりの無鉄砲だ。おそらく全国に知れ渡ると相当の恥さらしとなるだろう。


平和の尊さというのは、戦争の悲惨さとの対比で浮かび上がるものだ。そうでないと、右翼の諸君の好きな言葉で言えば「平和ボケ」になってしまう。

戦争の悲惨さの重要な要素として、残虐性がある。もちろん過度の暴力描写が際限なく許されるわけではない。

しかしその境界線は、ストーリー全体との関わりで必然性があれば、緩和されるべきものであろう。そこには常識というものがある。

「はだしのゲン」をいう漫画を一言で言えば、“被爆者の叫び” だろう。
肝腎なのは、その表現が過激・残虐かどうかではない。被爆者の体験そのものが過激・残虐なものだった ということである。
それをありのままに提出したから、過激・残虐になるのである。


教育委員会のメンバーの脳の中を想像すると、

1.「平和ボケ」で、平和を守ることの至高の価値、大事さが感じられなくなっている

2.ホラー映画の見過ぎで、残虐性がその形式・表現においてしか捉えられなくなっている。

のいずれか、あるいは両者であろうと思われる。

バーチャルの残虐性には、残虐行為への意図がないという特徴がある。意図の残虐性は覆い隠されてしまっている。

教育委員会のメンバーには、この“意図の残虐性” に対する怒りが欠落している。だから「はだしのゲン」をホラー映画や、スプラッター・ムーヴィーと同列においてしまうのである。