前の記事で、
一つは、彼の日本に関する発言の当否をめぐる問題がある。そしてもうひとつは、彼がそう考えるに至った経過の跡づけという問題がある。
と書いた。
その“もう一つ”のほうがまだ書いていない。

オリヴァー・ストーンは映画「プラトゥーン」で鮮烈なデビューを果たした。
息子たちは、映画が終わったとも席を立てず、怖い顔をして黙り込んでいた。
しばらくは、家でバーバーのアダージョをかけると、急に塞ぎこんで下を向いたまま動かなかった。
よほど印象が強烈だったのだろう。

その後同工異曲の映画がたくさん作られたが、「プラトゥーンをしのぐ」などとはやされて、こちらも乗せられてあらかた見たが、登場人物はハリウッド風のフィギュアばかりで、生身の人間が描かれているものは殆ど無かった。

ただ、当時から言われていたが、ベトコンは不気味な存在としてしか出てこない。実際にははるかに深刻な恐怖を味わっていたのはベトナム人の方だった。

まぁ、それは良い。そういう映画なのだから、と思っていた。

ところが、その後オリヴァー・ストーン監督は堰を切ったように次々に作品を発表するようになる。

ウィキペディアで調べると以下のようだ。

こうやって並べると、結構見ていない映画も多い。というか、ほとんど見ていない。

サルバドールは実際にはプラトゥーンの前のようだが、売れそうもない映画がプラトゥーン大ヒットのおかげで日の目を見たようだ。

そしてJFKと続いていく流れを見ながら、私はオリヴァー・ストーンを「遅れてきた青年で、私より少し右側を歩いている人」だと思っていた。(私より10日若い)

今でもその印象は基本的には変わっていない。

ベトナム人民支援運動をやっていたとき、彼は戦場で迷える子羊であったし、ニカラグア・エルサルバドルへの連帯運動をやっている最中に、彼はエルサルバドルの状況に触れ、怒りを抱いた。

そして、91年に「JFK」を作ったとき、彼は未だにケネディ神話の信者であった。

彼は今アメリカ現代史のドキュメンタリーに取り組んでいるが、それは我々が若い頃に読んだハワード・ジンの「民衆のアメリカ史」の焼き直しのようにも思える。

別に唯物論者になれとは言わないが、彼は人物にこだわリすぎるきらいがある。もちろん映画なんだから、特定の人物をフィーチャーしながら物語を構築していくのは当然である。

しかし主人公がスーパーマンになってはいけない題材もたくさんある。「タラ・レバ」話では、世の中いかない。ウォーレン副大統領の話はかつてのJFK神話を別の人物に置き換えただけのように思う。

やはり、ある人物をそうさせた歴史こそが真の主人公であり、歴史を動かしたのは無数の民衆の力だという視点を貫くべきだと思う。


帰りに、つたやによるとするか。

会員証は作りなおさないとダメかな。


アメリカ史については、私の年表もご参照ください。

#1米国史1,123kb カボットのニューファウンドランド探検から「門戸開放」まで

#2米国史2,65kb  フィリピンの反乱からケネディの当選まで

#3米国史3,116kb  対キューバ断交からクリントン弾劾まで

#4ケネディ暗殺,73kb

#5ウォータゲイト,13kb

#5イラン・コントラゲイト,38kb

#6インディアン抵抗史,37kb