第3節 一般的例証 1861年ー1865年の綿花恐慌

この部分は非常に分かりやすく、いくつかの教訓も学べる。第一、面白い。理由はマルクスの筆によるものではないからである。

第7章 補遺

ここまでの第1篇でマルクスが主張してきたことは、結局以下のことである。

それぞれの生産部門で得られる利潤量は、それぞれの部門に投下された資本が生み出す剰余価値の量の総額に等しい。つまり利潤イコール剰余価値イコール不払い剰余労働である。

剰余価値率が同じでも利潤率が変動する場合があると言って、マルクスは以下の例を挙げる。

原料価格、設備費用、材料の利用効率、労働組織の効率…

これらが資本家自身、経営幹部の個人的手腕により大きく左右されることを、マルクスは認める。

このような事情が資本家を惑わせて、自分の利潤は労働の搾取のお陰ではなく、自分の個人的な活動のおかげだと確信させるのである。


これは利潤率を表す式 m/C+v の説明である。

つまり生み出される価値が労働の剰余価値でしかないとすれば、利潤率はm/v を越えることはありえない。しかも分母にCという余分なものがあり、Cが大きければ大きいほど利潤率は下がってしまう。

そこで資本家はC をできるだけ減らすことによって利潤率を剰余価値率に近づけようと努力することになる。それがあたかも資本家が価値を生み出しているようにみえるので、資本家はそう信じるようになってしまった。


それをるる説明してきた。しかしブルジョアはそれを認めたがらないだろう。

その理由は2つある。

1.流通過程ではブルジョアは生産過程を忘れている。だからブルジョアにとっては、商品の価値の実現(剰余価値の実現を含め)は、剰余価値を作り出しているかのように思えるのである。

2.剰余価値の量の総額が同じだとしても、利潤は変動する。剰余価値率(労働の搾取度)が同じでも、利潤率は大きく変わってくる。だからブルジョアにとっては、自らの才覚で剰余価値を生み出しているように思えるのである。


と書いたのだから、順に説明していけばよいのだが、2.の説明にいきなり行ってしまう。なぜなら、2.の観点が綺麗に整理できなかったからである。と、エンゲルスは説明している。

ということは、第2節の「資本の増価と減価 資本の解放と拘束」で資本展開の論理が十分に説明しきれなかった、という思いが残っているからであろう。だからこの「補遺」は第2節への補遺としてみておくことが必要だろうと思う。

確かに規定は変である。私は「①剰余価値の量の総額が同じだとしても、利潤は変動する。②剰余価値率(労働の搾取度)が同じでも、利潤率は大きく変わってくる」と書いたが、実際の文章は①と②の順序が逆なのである。①が言えれば②は言えるが、②が言えたとしても、だから①とは言えないのである。

もう一回やり直しだ。

実は、利潤率の問題はマルクスにとって鬼門なのだ。「経済学批判要綱」の時代に利潤率の相対的低下こそが、資本主義の墓掘り人なのだと書いたが、その後この考えは実際には放棄している。しかし論理的に突き詰められては居ない。単純再生産であれば良いのだが、拡大再生産に話を広げる場合には、利潤率だけでなく利潤の絶対量が問題になるだろう。

私の思いつきだが、m/C+v で考えているから分からなくなるのだろうと思う。これの逆数となる概念を考え出せば、その後の作業はずいぶん楽になったはずではないだろうか。inv m/C+v →C+v/m である。これならC/m とv/m の和として分離できる。v/m は剰余価値率の逆数だから人的コスト率ということになるか。しかしC/m がどういう概念だろうかと言われると、私にも分からない。

ベクトルを揃えるために、労働価値説に立って考えて見れば、C と言うのは固定資本や資源として残された人類の過去の労働の一部ということになるのだろうか。個別の労働が生み出した剰余価値1単位分に対して何単位の過去の労働がつぎこまれているのか、という指標になるのかもしれない。


次の断片には、注目すべき記述がある。

各商品の価値は、その商品にふくまれている必要労働時間によってではなく、その商品の再生産に必要な労働時間によって制約されている。

断片の中の一文であり、消化不良ぎみであるが、商品の価値を見る場合、市場というショートレンジでの評価と、時代というトレンドの中での評価と二つの側面から見なければならないということであろう。

しかもマルクスはトレンド評価まで m/C+v で説明しようとする。双曲線カーブをおっ立てて、時間軸を追加して、この双曲線がどういう曲面を描いていくかを知ろうとするわけだから、ちょっと無理がある。