第1節 ポランニーの機能的社会主義

 論争はミーゼスの社会主義計画経済への批判から始まった。彼は「市場か計画か」という二分法的な思考に依拠した。この方法に最初に疑問を呈したのはカール・ポランニーであった。

ポランニーは 1922年に「社会主義計算問題」を発表し、集産主義的でも,サンデイカリズムでもない,「第三の道」としての機能的社会主義論を示そうとした。

ポランニーは,社会主義経済における経済計算が,社会主義達成のための核心的な問題であることを認める。同時に,そのような計算問題を解決しうるのは,中央集権的社会主義ではなく,機能的社会主義だと主張する。

この「社会主義計算問題」はミーゼスらから批判を受けた。

このため、ポランニーは1924年の「機能的社会理論と社会主義計算問題」で、その批判に答えつつ、さらに自説を展開している。

ポランニーはこの論争の中でどう位置づけられるだろうか。

「社会主義社会における計算問題」の解については三つの主要グループが区別される。市場経済派、市場なき経済派、そしてポランニー派である。

市場派と非市場派は互いに争つてはいるが,問題提起の点では一致している。両者とも,市場経済と非市場経済との理論的対立を、資本主義対社会主義の対立と同一視するからである。そして、社会主義経済を集産主義・国家社会主義的であると同時に、まさに交易も市場もない経済、集権的な指令経済と規定する。

この二つのグループは,ポランニー派に対して、水も漏らさぬ共同戦線を張っている。ポランニーはいわば異端との扱いを受けている。

どこが異端なのか。

ポランニーは主張する。

経済理論: 市場経済か非市場経済かという対立は不可避的なものではない。

経済組織理論: 集産主義かサンリカリズムかという対立は不可避的なものではない。

この対立を乗り越えるものが「機能的社会主義」である。

それでは機能的社会主義とは何か。ポランニーは次のように説明する。

「社会主義経済」は、何よりもまず、その目的によって規定されなければならない。それがどんな姿になるかは、未だ実現していないのだから未確定である。

その目的とは、

1.経済性における「生産の最大生産性」

2.社会関係における「分配及び生産の社会的方向に対する社会的公正の支配」である。


私の感想だが、「社会的公正の支配」ではなく、「生産の最大生産性」(生産効率の最適化)をトップに据えたことは慧眼である。たまたま併読している資本論第三部の冒頭(不変資本の節約)とピッタリ符合する。

また、「社会的公正」も,たんなる労働や諸資源の配分および生産物の分配における公正というのではなく、むしろ重点は、社会的観点からみて望ましい経済の方向付けのことを指すのであろう。

それにしても西部さんの日本語は難しい。


そしてボランニーはこれら経済性と公正性を,全体社会の互いに依存しあう二つの要因として統一的に捉えようとした。

スタティックに考えれば、これらは生産関係と社会関係という二つの社会構造であり、全体社会の二つの切り口である、しかしダイナミックに考えれば、社会主義経済はこれら二要因の「機能的な相互依存関係」として捉えることができる。

その際、生産関係は社会的公正の介入なしに生ずる技術的・自然的費用として,社会関係は、社会的公正の生産関係への介入によって生じる社会的費用として捉えられることになった。

ポランニーは,経済に対し公正が与える「枠組作用と干渉作用」という概念を設定することにより、指令経済(公正によって統制された経済)と,自由経済(公正による統制から自由な経済)との,慣習的な二者択一は止揚できると考えた。


この辺りは、まだ練られていないようだ。いろんな概念を重ねあわせることで見えてくることもあるが、見えなくなってしまうものもある。マルクスが往々にして犯す失敗だ。

人間の持つ自然的存在としての性格と社会的存在としての性格を、それぞれにより発展させていくことが、社会主義経済の目標だ。人間には二つの側面があるのだから、どちらかを捨てるという訳にはいかない。

あまり哲学的にならずに、生産効率の極大化と社会的公正の実現を社会主義経済の二つの目標として定立すればよいのではないか。


つぎに,社会主義社会における機能的な均衡(非抑圧的な均衡)の可能性の問題である。

ポランニーは,社会は異なる目的に応じて組織され,その社会的機能を果たす種々の団体,あるいは利益集団から構成されているとし、社会全体の機能は,これら個別の組織の機能の総体として理解されると主張する。(要するに社会分業論)

そして,社会主義社会は,コミューン(地域共同体)と生産諸団体(ギルド評議会)という二つの主要な機能的組織が社会の最高権力を体現するような社会構成になると想定する。

コミューンは,狭義の「社会」あるいは「消費」を代表する政治的な組織であると同時に,生産手段の所有者でもある。その目的は社会的公正と消費者の共通自的を追求することにある。

一方,生産諸団体は, 「生産」を代表し,最大の生産性の追求をその目的とする。

そしてこの二つの組織が相互協定により賃金と価格を設定する。


この部分はあまりにもナイーヴである。

ミーゼスは,「そんなこと言ったって、最終的決定権はどうなるの」と切り返している。もし最終的決定権がコミューンにあれば集権的指令経済となり,それが生産諸団体にあれば,組合的共同体となるのではないかというのである。当然の疑問である。

これに対してポランニーは、「両方とも人間の生活にとって必要不可欠なものだから、どちらかが一方的に勝つとかいうことにはならない」みたいなことを言っているが、一般均衡理論の政治への敷衍化に過ぎず、反論にはなっていない。

ただ大事なのは、社会主義社会においてはコミューンが全権を握るような集権的指令経済はありえないという主張である。

ポランニーは、異なる機能集団を中央集権国家のような単一の組織に併合してしまうことは,社会的な構成要素を不明確にし,人間の道徳的,倫理的意識を弱めてしまうと述べている。ただし「機能的に組織された社会主義移行経済」においては、限定つきでOKということだ。


しかし単一組織への併合は、別に社会主義の専売特許ではない。それはブルジョア民主主義が議会制民主主義として定式化したモデルだ。議会制民主主義こそは「票のもとでの平等」を掲げながら、「異なる機能集団を中央集権国家のような単一の組織に併合」した機構ではないか。

むしろそういう民族国家システムは、社会主義になれば死滅していくと考えるべきであろう。そこを指摘したものであれば、ポランニーの主張には意義があるといえる。