ありました!
残っていました。

昨日、その2 と書いたのが、その3 になります。
これが その2 で、年表のアンコの部分です。
1980年から90年までの11年分です。

その3 はこれを入れた後、あらためて入れ直しますので、この記事の上の上になります。

もう少し足した上で、そのうちホームページの方にまとめて入れます。



1980年

80年 LF、東ベイルートとベッカー高原を結ぶ軍事道路を建設・整備。これを支援するイスラエル軍とシリア軍が戦闘。イスラエル空軍の戦闘機がシリア空軍のヘリコプターを撃墜。シリアは、"レッドライン協定"を無視し、地対空ミサイルをベッカー高原に配備する。

9月22日 イラン・イラク戦争が始まる。シリアはイランを支持する姿勢を明確に示す。(敵の敵は味方という論理)

1981年

2月 シリア政府、国内のスンニ派勢力に厳しい弾圧。シリア・ムスリム同胞団の活動家を虐殺する。「ハマーの虐殺」と呼ばれる。

81年 レバノン・フォースとシリア軍とのあいだに戦闘が発生。イスラエル国防軍は、すぐさまレバノンとの国境を越え、シリア軍と交戦。ベイルートのPLO本部オフィスを含む拠点を爆撃する。

81年 イスラエル・シリア間の緊張は、米国の仲介によりいったん沈静化する。シリアは武装闘争派への統制を強化。

81年 PLOはレバノン国内からイスラエルへ向け、ロケット攻撃を激化させる。

81年末 イランでの非ホメイニ派粛清を機に、アマル運動とイランとの関係が断絶。アマル運動はイラン革命防衛隊の派遣を拒否。

1982年

3月 イランとシリア、通商協定および軍事協定を締結。シリア、イランと連携しイラクに対する側面攻撃を開始。

6月03日 ロンドン駐在のイスラエル大使シェロモ・アルゴブが、元PLO(アブ・ニダル)のテロリストに襲われる。PLOはすぐさま事件との関わりを否定。シャロン国防大臣は開戦を煽る。

6月06日 イスラエルがPLO殲滅を主目的とする「ガリラヤの平和」作戦を開始。レバノンのSLAとレバノン・フォース、さらに南部アマルの一部も加わる。

6月11日 イランの第27 旅団先遣隊と国軍第58 レンジャー部隊が空路ダマスカスへと到着した。シリアはレバノン入国を許可せず、そのままイランに戻った(とされる)。

6月12日 イスラエル軍がベイルート近郊に到達しシリア軍と戦車戦。国産戦車メルカバがソ連の最新鋭戦車T-72を多数撃破。

6月13日 イスラエル国防軍はPLOの本部がある西ベイルートへ突入。PLOに国外退去を迫り、砲撃で威圧する。その後、包囲は2ヶ月におよぶ。

レバノン国民抵抗戦線: PLOとともにベイルート市街戦を戦った武装組織として、「レバノン国民抵抗戦線」がある。これには進歩社会党、レバノン共産主義行動組織、アマル運動の左派(レバノン・ムスリム・ウラマー連合)が加わった。

6月20日 アマル運動の指導部、PLO の対イスラエル闘争を無謀な冒険主義であると批判。IDF に対する抵抗を続けていた一部のアマル運動のメンバーに対して,武器を置き,戦闘を停止するように命令。

6月 アマルの副書記長フセイン・ムサウィの率いるベイルート周辺のアマル部隊が、イスラエル軍と衝突。

6月 サルキス大統領、「救国委員会」を組織。米政権の仲介のもと,外交を通してイスラエルとの停戦交渉によって事態の解決を目指す。アマルも委員会への参加を決定。

7月 フセイン・ムサウィー、「イスラエルとの停戦は反イスラーム的行為である」と執行部を批判して追放される。手兵を率いイスラミック・アマルを設立する。

7月 ベカア高原のバアルベックで3つの親ホメイニ・グループが結集し「9名委員会」が創設される。のちに単一組織「ヒズボラ」に発展。

3つのグループとは,①「イ スラーム・アマル運動」(代表フサイン・ムーサウィー),②「レバノン・イスラーム・ダアワ党」および「ムスリム学生のためのレバノン連合」(代表スブ ヒー・トゥファイリー),③「レバノン・ムスリム・ウラマー連合」(代表アッバース・ムーサウィー)であった。

8月21日 最後まで抵抗を続けたPLOが停戦に応じる。アラファト議長はアメリカの仲介でベイルートを放棄を決定。アメリカはパレスチナ人難民の安全保障を目的とする平和維持軍の派遣に同意する。

8月30日 アラファト議長らPLO指導部および主力部隊1万2千人がチュニジアへ向かう。残留パレスチナ難民保護のため、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどが多国籍軍の派遣を決定。

8月 大統領選挙。LFの若手指導者バシール・ジェマイエルが当選。イスラム教左派は選挙をボイコットする。

8月 フサイン・ムーサウィーら、ダマスカスで駐シリア・イラン大使と会見し、支援を取り付ける。イラン革命政府は革命防衛隊,少なくとも800 名をレバノンへ派遣。ムスリム・ウラマー連合への軍事訓練を開始する。

9月14日 バシール・ジェマイエル、LF本部に仕掛けられた爆弾で暗殺される。 シリア情報部の工作員の犯行といわれる。これに代わり兄のアミーン・ジェマイエルが大統領に就任。

9月 エリー・ホベイカ率いるLF部隊、ジェマイエル暗殺に対する報復のためパレスチナ難民キャンプを襲撃。サブラーおよびシャティーラのパレスチナ難民キャンプに侵入し大量虐殺を行う。シャロン国防相はこれを黙認。イスラエル国防軍は虐殺を止められなかった責任でシャロン国防大臣を解任。

82年秋 LFと再建された政府軍がレバノン中部のシューフ山地を攻撃。「山岳戦争」と呼ばれる。

山岳戦争: シューフ山地はもともとドルーズ派の本拠地であった。イスラムはドルーズ派にアマル派の一部も加わり激しく抵抗した。
政府軍は多国籍軍に空爆や艦砲射撃による援護を要請。ベイルートに駐留する多国籍軍は政府軍に軍事援助を行い、戦艦ニュージャージーからの150発にも上る艦砲射撃や、空母艦載機による空爆などを行った。
民間人もふくめた大量殺戮が横行、「捕虜の存在しない戦争」といわれた。

11月11日 9人委員会の軍事部門「イスラーム抵抗」が「殉教作戦」の開始。南部の都市スールのイスラエル軍兵営に突入し自爆。90名以上の死者を出した。うちイスラエル軍兵士は74名。

 

1983年

4月 第2回目の殉教作戦がIDF の車列に対して行われ,9 名が死亡。

4月18日 ベイルートのアメリカ大使館に自動車爆弾特攻攻撃。63人が死亡(米国人17名、うち8人がCIA職員)、120人が重軽傷を負う。「イスラム聖戦」名の犯行声明が出される。

10月23日午前6時30分 アメリカ海兵隊の兵舎に自動車が突入し自爆。死者241名、負傷者60名以上を出す。ついでフランス空挺師団の兵舎も攻撃され死者58名、負傷者15名を出す。

特攻隊員はメルセデスのバンで検問を突破し、空港に侵入。駐車場を二度ほど回り、ターゲットに狙いをつけたあと司令部のあるビルに突入した。

11月4日 スールのイスラエル軍兵営に自爆テロ。死者60名以上、負傷者30名以上 死者のうちIDF兵士は29名、ほかは捕虜となったレバノン・パレスチナ人。

12月3日 シリア軍がアメリカ軍機に発砲。 アメリカ軍は空母ジョン・F・ケネディ と空母インディペンデンスの艦載機F-14トムキャットでシリア軍に攻撃を加えるが、対空砲で2機の戦闘機が撃墜される。

1984年

2月26日 アメリカ海兵隊の撤退。つづいてフランス軍とイタリア軍も撤退。

アマルやドゥルーズ派はシューフ山地の奪還に成功。西ベイルートからも国軍を放逐する。シリアの経済的・軍事的支援を受けたアマル運動が国内の勢力を拡大。国軍のイスラム教徒はアマルに合流する。

3月 シリア、アマルを中心に民兵組織指導者の「国民和解会議」を開催する。レバノン政府の存在は完全に無視される。

5月 9人委員会の発行物のなかで、初めて「ヒズボラ」の名が用いられる。

6月6日 スール近郊でイスラエル軍の車列が地雷攻撃を受け、負傷者9名を出す。

6月18日 ヒズボラ、機関誌の準備号を発刊し無料配布。特集「レバノンにおけるイスラーム革命の声」が組まれ、「イスラエルの存在を根絶することは,我々すべて1 人1人の義務である」と宣言。

9月20日 「イスラム聖戦」がふたたび米大使館(別館)に自爆テロ。死者14名(米国人は2名)を出す。

 

1985年

2月16日 ヒズボラが公開書簡の発表を通して存在を明らかにする。イスラエルを敵としアマルとも敵対、パレスチナ人を支持すると発表。

1986年

86年 シリア軍とアマルによるパレスチナキャンプへの攻撃(キャンプ戦争)。

86年 イラクの支援を受けた国軍のミシェル・アウン将軍(マロン派)、シリア・PLOの排除と民兵組織解体による政府・軍の樹立を掲げ影響力を拡大。イラクはイラン・イラク戦争の終結で余剰となった武器弾薬や車両を提供する。

1987年

87年 アマルがヒズボラと交戦。シリアはアマル支援のためレバノンに再侵攻。イランと交渉し、ヒズボラの存続と引き換えにシリア軍の進駐を認めさせる。

1988年

1988年 アミン・ジェマイエル大統領の任期が終了。アミンはレバノン軍参謀総長のアウン将軍(キリス ト教)を首相に任命した後、亡命同然にアメリカへ移住。アウンは全国民に、レバノンの主権回復のためシリアに対し武装抵抗せよと呼びかける。

88年 シリアはベッカー高原のラヤク空軍基地に国会議員を召集しルネ・ムアワドを大統領に就任させる。この結果、反シリアのアウン軍事政権とシリア派のムアワド政権が併存する事態となる。

1989年

10月  レバノン内戦終結をめざし、サウジアラビアが乗り出す。サウジアラビアの仲介で、レバノンの国会議員団が、内戦を終結し国家再建を目指す和平案を提示。サウジのターイフで会議が開かれたことから、「ターイフ合意」と呼ばれる。

11月24日 アミン・ジェマイエル前大統領が暗殺される。これに代わる新大統領に親シリアのハラウィ海軍将校ハラウィが就任。ハラウィはアウン首相を解職。アウン将軍はこれを無視。

89年 シリアと多くの武装組織が「ターイフ合意」を承諾。ヒズボラも消極的賛成にまわる。アウン将軍派は受け入れを拒否、南レバノン軍は合意そのものを黙殺する。

1990年

90年 イラクのクウェート侵攻。第一次湾岸戦争が発生。シリアは多国籍軍側にたち、米国にレバノン駐留を認めさせる。

90年 アウン派とシリア軍が対決。シリア軍とレバノン・フォースが共同し、アウン将軍の部隊に総攻撃。戦車や長距離砲、ロケッ ト砲を用いた大規模な戦闘となるが、アメリカの黙認を受けたシリアの攻撃によりアウン派政府軍は崩壊。アウン将軍はフランス大使館に逃げ込み、亡命を要求。

90年 民兵組織指導者が閣僚に就任した挙国一致内閣を樹立。シリア軍3万人が東ベイルート、ジュニエなどのマロン派の本拠地に進駐。民兵組織を武装解除して内戦を終結させる。

90年 内戦が終結。15 年間に,13 万から25 万人もの死者と,100 万を超える負傷者を生んだ。パレスチナ難民は市民権をレバノン政府によって剥奪され、PLO系の軍事組織は武装除され、社会的な保障も無くなり、パレスチナ難民キャンプはスラム化する。