レバノン内戦年表

 

パレスチナ年表に一緒に入れていましたが、あまり事項が多すぎて、本来の流れが分からなくなるため、別表としました。基本としては1975年から90年までですが、若干前後に伸びています。
ちょっとヒズボラに比重が行き過ぎていてヒズボラ年表みたいですが、ご容赦の程を。
ヒズボラの輝ける伝統からすれば、アサドに肩入れしてシリアの民衆弾圧の側に回っているのはきわめて残念なことです。最近は国会議員先生になって、SUVなんか乗り回して堕落してしまったとの噂もチラホラと聞こえてきます。

 

1972年

11月 レバノン内でのPLOの存在と活動を保障するカイロ協定が結ばれる。PLOがレバノンの主権を尊重することを条件に、レバノンがPLOに難民キャンプ内でのPLOの行政権と,武装部隊の配置,また南レバノンへの移送ルートの確保を認めた。

1972年

72年 レバノン、国内南部にPLO訓練基地を与える。

1974年

10月 アラブ首脳会議(ラバト会議)においてPLOは,パレスチナ人の唯一の合法的代表として認知される。

11月 パレスチナ、国連におけるオブザーバーの資格を獲得する。

1975年

1975年4月

4月13日 アイン・ルンマーネ事件が発生。銃撃戦により27名が死亡。レバノン内戦の始まりとされている。

ベイルート郊外南部のアイン・ルンマーネ地区のキリスト教会で集会が行われていた。この時PLO支持者達のバスが教会前を通りかかり、興奮していたPLO支持者が教会に発砲した。居合わせたファランヘ党のメンバーがこれに応戦し銃撃戦に発展した。

4.14 衝突はトリポリ、サイーダにも拡大。100名以上が死亡する。不毛の内戦の始まりとなる。

4.16 レバノン両派の衝突は、アラブ連盟事務総長とシリア外相の調停工作で一旦停戦。

1975年5月

5.13 ファランヘの党員4名が何者かに射殺される。ファランヘはPLO事務所を襲撃。

5.19深夜 ベイルート東部デクタワー地区(マロン派支配区)で、パレスチナ・ゲリラとファランヘ党 武装グループとの戦闘。

5.23 内閣が衝突の責任を取って辞任。右派の軍人政権が成立する。これに対し、イスラム教徒・左派政党などが全土で激烈な反対運動を展開。ドゥルーズ派の指導者カマール・ジュンブラートは、親ソ親PLOの立場を取り、宗派の違いを越えた汎アラブ主義を唱える。

5.26 軍人政権も3日間で総辞職。左右双方の民兵組織が抗争を繰り広げる。各組織がベイルート市内のホテルを占拠・要塞化したためホテル戦争と呼ばれる。

ホテル戦争: 毎週末になると、イスラム教・キリスト教の民兵組織による激しい戦闘が繰り返され、月曜の朝には死体が散乱していた。このことから"ブラック・マンデー"と呼ぶ。ベイルートの街は、イスラム教徒やパレスチナ難民の多い西ベイルート地区と、キリスト教・マロン派が多く居住する東ベイルートに分裂。両者の境界は"グリーン・ライン"と呼ばれる。

7月 「剥奪された者たちの運動」が憲章を採択、「パレスチナは,運動の中心であり,その解放は我々の基本的義務である.またシオニズムは,レバノンの未来に対する脅威である」と宣言。シーア派の武装組織「レバノン抵抗大隊」(略称アマル)を創設。のちに運動そのものが「アマル運動」と呼ばれるようになる。

イマム・ムーサー・サドル: 60年、イランからシーア派の宗教指導者としてレバノンに入る。「剥奪された者たちの運動」を組織。シーア派は人口比では最大のセクトだが、政治的にはこれまで疎外されてきた。

 

1976年

2月 この頃、両派の抗争は左派有意に傾き、ファランヘ党などのマロン派民兵組織は東ベイルートやジュニエなどに閉じ込められる。

2月 レバノンのPLO化を恐れるシリア政府、「ダマスカス合意」と呼ばれる政治改革案を提示する。内戦以前のレバノンの力関係の維持・固定をめざすもので、ドゥルーズ派やPLOなど左派の反感を買う。

3月11日 国軍のアハダブ准将(イスラーム)がクーデターを起こす。

5月 シリアは、“レバノン政府の要請を受け”軍事介入を決定。米国の仲介で"レッドライン協定"を結んだ上、ベイルートに進駐。無政府状態の中で大統領選挙を進め、 シリアの傀儡政権を樹立させる。

レッドライン協定: シリアとイスラエル双方の直接対決を回避するため、シリア軍部隊の駐留場所や兵器の種類・数量などを詳細に取り決めたもの。ベイルート以南に旅団規模を上回るシリア軍主力部隊を駐留させず、レバノンにおいてイスラエルを射程圏内に 収める長距離砲・ミサイル・ロケット弾を配備せず、また、一切の戦闘機・爆撃機をレバノン国内に駐留させないという不文律の協定。またキリスト教徒側への攻撃を行わないとの合意もふくまれる。

5月 シリア、周辺諸国の反発を抑えるため、中東各国にレバノンへの軍の派遣を要請してアラブ平和維持軍を設置、自らのレバノン介入を正当化する。

5月08日 シリア軍の統制下に臨時内閣が組織される。閣議決定によってエリアル・サルキスが暫定大統領に選ばれる。アラブ平和維持軍(実体はシリア軍)が治安回復に乗り出す。ジュンブラートはシリアを裏切り者と非難。

8月30日 。レバノン正規軍東部軍管区司令官のサード・ハダット少佐の呼びかけで、マロン派民兵組織が組織統一。レバノンフォース(LF)が創設される。イスラム・左派に対抗するためイスラエルの支援と介入を求める。

レバノン・フォース: ファランヘ党を中心に・自由党・タンジーム党・レバノン防衛隊の武装部門が合併。反シリア・反パレスチナを標榜する。ファランへ若手のバシール・ジェマイエルが司令官となる。

9月26日 パレスチナゲリラ、シリアの首都ダマスカスのホテルを襲撃。シリア軍は24時間にわたるPLOへの攻撃を開始。PLOはダマスカス西方の山岳地帯からの撤収を余儀なくされる.

10.25 第8回アラブ首脳会議がカイロで開催。シリアのレバノン進駐を了承。PLOに「レバノン主権の尊重」を認めさせる。

1977年

3月 イスラム勢力の中心的役割をはたしてきた国民進歩戦線の指導者カマール・ジュンブラットが暗殺される。ジュンブラットは少数派のドルーズ派出身でありながら、社会進歩党党首としてPLOや左派勢力とも良好な関係を築いてきた。

1978年

2月 LF部隊がシリア軍に武力挑発。シリア軍は"レッドライン協定"を無視し東ベイルート市街まで追撃。イスラエルはこれをレッドライン協定の違反と判断。レバノン南部侵攻作戦を発動する。

3月15日 イスラエル、特殊部隊と空軍機を出動させ南部侵攻を開始。PLOをロケット砲の射程圏外まで追い出す。

リタニ作戦(Operation Litani): リタニはレバノン南部を流れる川の名前。7日間の戦闘でイスラエル軍死者は37 人。一方,パレスチナ人とレバノン人は1100 人以上が死亡し,その大半が一般市民であった。

3月 イスラエルは南レバノンを「安全保障地帯」と名づけ、そのまま居座りを図る。

安全保障地帯(Security Zone): リタニ川以南のレバノン領がふくまれる。レバノンの総面積約11% におよぶ。住民の大半を占めたシーア派は移住を余儀なくされた。

78年 イスラエル軍、国連の介入により撤退。国連は戦闘停止と住民保護のためUNIFIL(国連南レバノン暫定軍)が派遣されるが、実効支配はできず。

78年 イスラエル、「自由レバノン軍」をでっち上げ、リタニ川以南の間接支配を続行する。

自由レバノン軍: 反PLO・反シリア・親イスラエルを唱える結成された。レバノン正規軍東部軍管区司令官のサード・ハダット少佐が司令官に就任。のちに「南レバノン軍」に改称。

8月 アマルの指導者サドル、リビアを訪問中に失踪。弁護士のナビー・ベリリが後継者となり、シーア派の利益を追求する世俗的政策を推進。

10月 イランでシャー体制が崩壊し,イスラム革命が勝利する。アマル運動は戦闘員500名を革命前夜のイランへ派遣。非ホメイニ派と行動を共にする。

78年 アラブ平和維持軍は撤退したが、シリア軍だけはそのままレバノンに駐留

1979年

2月 イラン革命政府、レバノンのシーア派を支援するため、パスダラン(イラン革命防衛隊)を送り込む。アマルはパスダランの援助を断り、シリアに接近。

12月 ソビエトのアフガニスタン侵攻が開始。アラブ世界では民族主義に代わってイスラム主義が勢力を伸ばす。

79年 シリアとイラクとの統一協議が失敗に終わる。アサドはイランに軸足を移す。