ソ連崩壊後の中東の変化

1991年にソ連が崩壊しました。これは中東情勢に複雑な影響をもたらしました。アメリカは冷戦構造にもとづくこれまでの中東戦略に一定の修正を加えます。

ブッシュ政権はイラクのフセイン政権を第一次湾岸戦争で叩きましたが、その際イスラエルの軍事施設がフル活用されました。中東における不沈空母としてのイスラエルの重要性が強く認識される脳になります。

しかし軍事拠点としてのイスラエルには、周辺諸国とのあいだの政治的不安定という弱点があります。とりわけパレスチナ問題が情勢を不安定化させているとの認識に立ち、ブッシュは両者の和解をもとめるようになります。

一方ソ連の崩壊に伴い、大量のユダヤ人がイスラエル移住をもとめるようになりました。そのすべてを受け入れるには国土が圧倒的に不足しています。そこで彼らはヨルダンが統治を放棄した西岸地帯に目をつけるようになりました。当時住宅相だったシャロンは,「湾岸戦争終結後にヨルダン川西岸およびガザ占領地に1万戸以上を建設.ゴラン高原のユダヤ人を倍増させる」入植計画を打ち出しました.

「そこが元々パレスチナの国土だから、その後継者であるイスラエルの領土であるはずだ」という恐ろしく勝手な理屈です。

ゲリラ集団の中でもソ連の崩壊の影響は甚大でした。PFLPやDFLPは存亡の危機に立たされ、政治的発言権を失います。シリア派のゲリラもシリアの後ろ盾となっていたソ連がなくなり弱体化しました。これに代わって進出してきたのがイランです。シリアはイランとつながることで命脈を保つようになりました。

こういう状況のもとでイスラエルとパレスチナの交渉が始まったのです。

 

パレスチナ自治政府の発足

1991年、マドリードで中東和平国際会議が開催されました.続いてその年の暮れにはワシントンでイスラエルとパレスチナの二国間交渉が始まりました.交渉のあいだもイスラエルは西岸地帯への入植をやめようとはしませんでしたが、PLOはじっと我慢しました。交渉を流産させようとするイスラエルの極右派がさまざまな策動を行いましたが、それにも耐え続けました。

93年9月、難産のすえにオスロ合意が成立しました。イスラエル軍は93年末日を期限として,ヨルダン川西岸およびガザ両地区から撤退することを承認しました.パレスチナの独立は暫定自治というきわめて制限されたものでしたが、それでもついに自前の政府を持つことに成功したのです。

アラブ諸国はこの合意を歓迎しました。ヨルダンはイスラエルと平和条約を締結し、モロッコとチェニジアはテルアビブに利益代表部を設置しました.パレスチナの自治実現はたんにパレスチナにとってだけではなく、イスラエルとアラブ世界の関係にとっても好影響をもたらすと思われました。

アラブの側にも反対者はたくさんいました。イランは暫定自治合意を批判.イスラム原理主義組織を支援していくと言明しました.これを受け、ハマスやイスラミック・ジハードはPLOに対する武力攻撃を開始します.しかし民衆はこの脅しをはねのけました。

ガザにPLO本部が設置されました.チュニジアからガザに「帰国」したアラファト議長は,熱狂的な歓迎で迎えられました.95年にはジェリコ以外の西岸6地区にも自治区が拡大され、ベツレヘム,ラマラーなど6都市が自治区へ「昇格」しました。自治政府の総選挙が行われ,アラファト議長が大統領に当選しました.

しかしイスラエルの極右派は、この僅かな妥協さえ許さなかったのです。1995年11月、イスラエルのラビン首相は記念式典の席上、凶弾に倒れたのです。首相の死を受けて行われた総選挙ではいまも首相を務める最強硬派のネタニヤフが当選。オスロ合意の反故化へと乗り出します。

 

アラファト監禁事件

その後、いったんは交渉推進派のバラクが首相に就きますが、2001年には極右派のシャロンに敗れ、ふたたび対決の時代がやってきます。ただ政権交代の直前にパレスチナ自治政府とのあいだで合意された「タバ協議」の内容は、今後ふたたび議論が再開されるにあたっての出発点となるでしょう。

 

 

この協議において、イスラエルは,ヨルダン川西岸地域の94%を返還し,残りの6%についても代替地の提供を提案しました.さらに「難民キャンプの窮状の迅速な解決に向けた道義的な責務を有する」ことを認めています.PLOはこれと引き換えにパレスチナ難民370万人の故郷への帰還という要求を放棄することを認めます。

しかしシャロンはパレスチナのギリギリの選択すら認めようとしませんでした。彼はパレスチナ側にさまざまな挑発を仕掛け、パレスチナ側が報復に出ると、これを奇貨として西岸地帯に大規模な部隊を派遣します。

シャロンのパレスチナ攻撃は言語道断、あまりにも非道なものでした。

2002年4月、イスラエル軍はアラファトの執務するラマラの自治政府議長府を戦車50台で包囲.攻撃を加えました.1ヶ月の包囲の後アメリカが乗り出し、包囲を解かせます。CIA長官テネットが直接乗り出し,ラマラでアラファトと会談しました.エネットは自治政府のテロ抑制方針をもとめ、アラファトは治安組織の改革を約束します.

しかしテネットが帰ったあと、イスラエルはふたたび包囲作戦を開始しました。

これに抗議するパレスチナ人の決死隊200人が,ベツレヘムの聖誕教会に立てこもりました.イスラエル軍は教会を包囲し,立てこもった人々に対し兵糧攻めを行います.

その最中に行われたブッシュ・シャロン会談で、ブッシュ大統領は「イスラエルには自衛の権利がある」と述べ,自爆テロへの報復を支持しました.そして中東和平国際会議の提案を否定しシャロンの思いのままにする特許状を渡したのです.

さらにブッシュは6月24日に「中東和平構想」を発表しましたが。それは平和破壊構想としか言いようのないものでした。ブッシュは、パレスチナ指導部はテロを奨励しているとし、「パレスチナ指導部がテロと戦わないうちは国家の創設を支持しない.そしてテロに妥協しない新しい指導者の選出を求める」とのべました。これは事実上オスロ合意を水に流す方針です。

同じ日、イスラエル軍はジェニン、ナブルス、トゥルカルム、カルキリヤ、 ベツレヘム、ラマラの西岸主要6都市を「軍事閉鎖区域」に指定し、報道陣の立ち入りを禁じました.とても報道できないような残虐行為を働くためです。「外出禁止令」を発し約2000人のパレスチナ人を拘束、うち約1000人を留置しました.ジェニンの難民キャンプでは押し入った戦車隊により数百人が虐殺されました.あろうことかイスラエル軍は抗議する群衆に向け砲弾を放ったのです。

アラファト議長はこのとき臍を固めました。「自治政府や和平を破壊しようというイスラエルの真の意図が暴かれた.どんなに犠牲者が出ようと、パレスチナ人は屈しない」と述べ、対決姿勢を鮮明にします.


ここまでが、とりあえずの歴史です。この後はまだ書けていません。
なぜかというと、アラファトをクソミソにやっつける記事ばかり多くて、パレスチナ民衆の戦いの本流が描かれていないものばかりだからです。
私としてはアラファト個人を支持するわけではないが、ここまでの彼の取ってきた路線は支持せざるを得ません。
彼の行動は多少のブレはあるにせよ、パレスチナの民衆の声の反映だろうと思います。
外国勢力の支援を受け、ときに干渉も受けながら、根本的にはパレスチナ人民の願いを受け止める方向で運動は進んできました。
その最高の到達点が2001年の協定であり、そこに戻って歩みを再開することが一番もとめられているのだと思います。

門外漢の私がつたない文章を書き綴ったのも、その思いからです。

この続きは少し準備した上で、いずれ再開したいと思います。