レバノン内戦とパレスチナ人大虐殺

しかし、レバノンに逃れたパレスチナ人にとってはこの時期に空前の苦難が襲い掛かります。レバノン内戦です。

レバノン内戦というとパレスチナ人とは関係のない権力争いのように聞こえますが、実はイスラエルの支援を受けた民兵によるパレスチナ難民への攻撃が主たる戦闘だったのです。闘いを仕掛けたのはデール・ヤシンの虐殺者ベギンでした。首相に就任したベギンは「67年の国境線には戻らない,PLOは認めない,パレスチナ国家は許さない」という「三つのノー」を主張しました。パレスチナとの対応は暴力一本やりとなります.

レバノンにはマロン派キリスト教徒とイスラム教徒が共存しています。人口比からいうとイスラムのほうが圧倒的に多いのですが、キリスト教徒は首都ベイルートを中心に商工業を抑え強い影響力を持っていました。ある意味でイスラエル建国前のパレスチナと似たところがあります。

このマロン派が色々と難癖をつけてパレスチナ人への攻撃をはじめました。パレスチナ人を載せたバスを襲撃し女性や子供を含む乗客27人全員を虐殺しました.イスラエル軍は内戦に乗じレバノン南部を占領、パレスチナ難民キャンプを反復攻撃します.1976年10月にはタルザータルという難民キャンプが襲撃されました。詳細は未だに不明ですが、一説には500名が生き埋めにされ,400人が殺されたといわれます.

 

史上もっとも醜悪なノーベル賞

アメリカは中東におけるソ連との対抗関係の要石としてイスラエルを位置づけました。そしてエジプトを取り込むことによって、その支配を安定させようと図りました。パレスチナの人々とか、正義とか人道などというのは眼中にありません。

それが米国流の「平和」なのでしょう。エジプトのサダト大統領を取り込んだ米国はキャンプデービッド合意を実現します.これで中東に平和が訪れるというのです。ベギンと背信者サダトはノーベル平和賞を獲得しました.

ノーベル“平和”賞は、殺人鬼ベギンに勅許を与えたようなものです。ベギンは三つのノーをあらためて確認し、エルサレム全市の占領を宣言しました。イスラエル国会はエルサレムを恒久の首都と宣言し、占領地への入植を強化しました.そして1979年9月には南アとの共同で核爆弾を共同開発するに至ります.

そして1982年6月には、機甲部隊がレバノン国境を越え侵攻を開始しました。エジプトが動かないと見ての行動です。シリア軍が抵抗しますがミサイル基地19箇所を破壊され、空軍機82機を撃墜されあえなく降伏します.

イスラエル軍はそのままベイルートに進撃し,大統領府を占拠します.700台の戦車が40万人のレバノン人が住むベイルート市内に砲弾を撃ち込みました。クラスター爆弾,黄燐爆弾,バンカー・バスターなどの残虐兵器が使用され,この日一日だけで1500人が死亡したといわれます.フランス国営放送,UPI,AP通信社などの建物も破壊されました.国連などの援助物資は市内搬入を拒まれました.

イスラエル軍の目標はベイルート市内のPLO代表部の撤退にありました。PLOも随分頑張ったのですが、2ヶ月に渡る籠城の後、ついに撤退を余儀なくされます。ここまでの死者は2万人,負傷者は3万人を数えます.

PLOが撤退した後もイスラエルは追撃の手をゆるめませんでした。レバノン各地のパレスチナ人難民キャンプを襲撃しては虐殺行為を続けました。中でももっとも悪名高いのがサブラとシャティーラのパレスチナ難民キャンプ虐殺事件です。作戦は延べ48時間にわたり、パレスチナ難民3千人が虐殺されました。

これはイスラエルの手下となったレバノン人部隊をそそのかせてやらせた事件ですが、難民キャンプはイスラエル軍が包囲しており,キリスト教民兵を侵入させたのも,逃げ出そうとする民衆を押し返したのもイスラエル軍でした。

陣頭指揮に立ったシャロン国防相は作戦を督励したことが明らかになり、解任されています。

この作戦ほど大義名分のない戦争はないのではないでしょうか。国連安保理は停戦案を提示しますがイスラエルは拒否。イスラエル非難決議に対してはアメリカが拒否権を行使という具合です.

 

PLOの停滞とイスラム原理派の伸長

それからの約10年、パレスチナ人民とその代表であるPLOにとっては苦難の時代が続きます。平和・国際外交路線を打ち出したものの、イスラエルはそれを無視して大量虐殺を繰り返し、パレスチナ人をイスラエルのみならずヨルダンからもレバノンからも追い出したのです。

路線的にも模索の時期となりました。武力闘争への復帰を目指す動きも何度か現れました。とくに徹底的に弾圧されたPLOに代わり、イスラム原理派の動きが活発となりました。レバノンの難民の一部はシリアやイランの支持を受け非スンニ派の武装組織「ヒズボラ」を結成しました。

彼らの行動は、ソ連を最終的な敵とし、PLOに焦点を合わせていたイスラエルやアメリカにとって予想外のものでした。1983年4月、ベイルートのアメリカ大使館に自動車が突っ込み、自爆しました。この特攻攻撃で63人が死亡,120人が重軽傷を負いました。この後、連続的に自爆攻撃が繰り返されます。

イスラエル国内でもレバノン侵攻に対する不満が強まり、ベギン首相は辞任を余儀なくされます。

これを見たヒズボラはさらに攻撃を強化しました。最大の作戦が10月に行われた米海兵隊への攻撃です。23日朝、ベイルート空港に隣接する米海兵隊司令部ビルに車爆弾が突入.続いてアメリカ海兵隊の兵舎にも自動車が飛び込み自爆しました。この作戦で米海兵隊は史上空前の237人の犠牲者を出したのです。さらにフランス空挺師団の兵舎にも車爆弾が突入し72人が死亡.11月にはイスラエルの兵舎にも車爆弾が突っ込み60人以上が死亡しました.

こうした状況が1年半にわたり続いた後、85年1月、ついにイスラエルはベイルート撤退を余儀なくされます。イスラエル軍に対するテロは占領の終了までに800回近く行なわれ、その死者は400人を超えました.イスラエル国民の10分の1が反戦デモに参加するなど,占領はベトナム化の様相を呈してきました.

(レバノン内戦はあまりに複雑なので、詳細は略します)

 

市民の抵抗運動「インティファーダ」

 

情勢の停滞を突破する引き金となったのが、1987年に始まった「インティファーダ」です。きっかけはガザ地区で起きた一件の交通事故です。パレスチナ人労働者の乗った車にイスラエル軍のタンクローリーが衝突しました.この事故でパレスチナ人4人が死亡、7人が重傷を負いました.この事故に対する若者の抗議が自然発生的に起こりました。若者たちは徒手空拳、弾圧に抗しては戦車に石を投げるのが精一杯でした。

抗議行動にたいしイスラエル軍は銃火で答えました。抗議行動に参加した少女が撃ち殺されました。これをきっかけに,イスラエルへの抵抗運動がガザおよびヨルダン川西岸両地区に拡大します.

時の国防相ラビンは「石を投げる者の手足を折れ!」と命令しました.この人にもノーベル平和賞が与えられています。

インティファーダの闘いは三年にわたり続きました。死者は900人、銃撃による負傷4万9000人、打撲傷2万4000人、手足の骨折1万6000人、催涙ガスの負傷者3300人で、投獄されたパレスチナ人は総数2万5000人にのぼりました.

この闘争は二つの意味で画期的なものでした。ひとつは武装集団に願いを託すのではなく、民衆みずからが闘うことなしに情勢は切り開けないということが確認されたことです。もうひとつは、民衆の立場に立てば、10年前にPLOが提起した二国家路線以外に現実的解決の道はないということを明らかにしたことです。

88年11月にアルジェで第19回PNC総会が開催されました。会議はヨルダン川西岸地帯でのヨルダンの統治権放棄を受け,「パレスチナの地を領土とし、エルサレムを首都とする」独立国家を宣言しました.同時にイスラエルの生存権を承認します.

これを受けたアラファト議長は、12月に国連総会で演説.テロ作戦を放棄しイスラエルの生存権を承認すると宣言します.他のゲリラ組織はイスラエルへの屈服として猛反対しますが、これがパレスチナの民衆の世論であることは明らかでした.