1948年 第一次中東戦争

5月、ユダヤ人はテルアビブで独立国家「イスラエル」の建国を宣言しました.アラブ諸国はこれに猛反発しイスラエルとの戦争を宣言します。イスラエルはイギリス軍内のユダヤ人部隊を中核に部隊を組織します。さらに民兵隊がパレスチナ人の集落を襲撃してパレスチナ人の追い出し行動を開始します。

中でも有名なのが建国宣言の直前にベギンの部隊の行った「デール・ヤシンの虐殺」です。彼らはデール・ヤシンという村を襲い、住民250人全員を虐殺しました.さらに生き残った村民をエルサレムまで行進させ,さらしものにしました。

アラブ諸国はパレスチナに一斉に侵入しました。5月の末にはエルサレムが陥落、イスラエルの命運は風前の灯となりました。このとき国連が謎の介入を行います。そして両者に1ヶ月の休戦を命じます。

どう考えてもやらせとしか思えません。その1ヶ月の間にイスラエルは兵器を購入し、世界各国から義勇兵を募集し、戦いに備えました。そして休戦期間が終わると同時に総攻撃をかけたのです。その間わずか10日間です。イスラエル軍は一気に国境線を超えて進撃しました.そして武器・弾薬が切れるころ、ふたたび国連は休戦を命じたのです。

こんな喧嘩では勝てっこありません。翌年2月、アラブの盟主エジプトがイスラエルとの停戦に応じました。その後も戦闘を続けたシリアも7月には停戦に至ります。この戦争でイスラエルは旧パレスチナ地域のほとんどを確保するに至りました。

と、ここまでは歴史の教科書にも載っているのですが、実はここからがひどいのです。この戦争の過程でパレスチナ人の7割にあたる90万人以上が家と故郷を失い、国外に追放されました。戦争後、国連はこれら難民の帰還を促す決議を採択するのですが、イスラエルはこれを拒否するのです。戦争はアラブ諸国が起こしたのだから、パレスチナ難民はアラブ諸国が受け入れるべきだというのです。驚くべきへ理屈です。

さらにひどいのが「不在者財産没収法」です。「戦争中に一度でも自分の居住地を離れたものの家屋や財産は没収される」というものです.どこを押せばこのようなセリフが吐けるのでしょう。この法律により戦場となった370カ村のうち300カ村,3500平方キロが没収されました。つまり第一次中東戦争はイスラエルの独立を目指す戦争ではなく、パレスチナ住民を追い出すための戦争であったことが分かります。

このようなイスラエルを国連は正式加盟国として受け入れました。米英仏三国は共同宣言を発表し、中東の“現状維持”で合意しました。ようするに出来レースだったわけです。

 

1959年 アル・ファタハの結成

難民と化したパレスチナ人はヨルダンやレバノンの難民キャンプで暮らすようになります。難民キャンプの青年たちは職もなく、未来もない状態でした。その中から最初の武装抵抗組織が生まれます。それがアル・ファタハ(パレスチナ民族解放運動)です。

指導者のヤセル・アラファト(別名アブ・アンマール)は,エルサレムの名門フセイン家の出身でした.カイロ大学を卒業してエジプト軍の予備将校となっていました。他のメンバーも,多くが50年代末にエジプトに留学していたパレスチナ人学生の出身です.

こういう構成からも分かるように、アル・ファタハはエジプトのナセル政権の強い後押しを受けて生まれた組織です。ナセル政権そのものがイスラエルとの戦争によって生まれた政権と言えます。第一次中東戦争での敗北はエジプトの青年に強い危機感を呼び起こしました。彼らは腐敗した王政のもとではイスラエルに打ち勝つような強大なアラブ人国家を形成することはできないと考えるようになりました。

そこで1953年にクーデターを起こして王政を打倒し、封建制度を改革し、軍の強い統制下に富国強兵策をとることになりました。そして再度イスラエルに闘いを挑むのですが、これもあえなく敗れます。逆にエジプト本土に攻めこまれそうになったエジプトは、スエズ運河を占拠し国有化を宣言しました。そして国際世論の後押しにより、かろうじて本土防衛に成功します。

パレスチナ解放の目標が困難となったとき、エジプトはゲリラ戦争を仕掛けることで内部の混乱を目論んだのだろうと思います。

ここで、アル・ファタハとPLOの関係について説明しておきます。1964年にナセルとアラブ諸国の後押しで第一回パレスチナ国民会議(PNC)が開催されました.会議のメンバーは地方有力者の代表と武装組織の代表から構成されていました。会議は執行機関としてパレスチナ民族解放機構(PLO)を結成することで合意しました.執行部の主要メンバーは親エジプト派の人物が占めます。アラファトらアル・ファタハはこの時はPNCメンバーの一つでしかありませんが、相次ぐ作戦の成功により民衆の支持を獲得していきます。

この会議では同時に「パレスチナ民族憲章」が採択されました。前にも書いたように、40年前にパレスチナ人が掲げた5項目要求を踏襲し、多民族共存の国家づくりを目指しています。ただ異なるのは、5項目要求のあとに出来た「イスラエル」国家を認めず、その解体を求めていることです。

 

ゲリラ闘争の高揚

パレスチナ・ゲリラの闘争が高揚したのは、皮肉にもアラブの三度目の敗北のためでした。しかも三度目の敗北はわずか6日間でエジプトとアラブの連合軍が壊滅するという屈辱的なものでした。

67年6月はじめ、イスラエル軍は突如先制攻撃を仕掛けます。エジプトの空軍基地を狙いすまして攻撃。1日で戦闘機300機を破壊してしまいました。制空権を奪った後、今度は戦車が一斉に侵攻を開始します。瞬く間にシナイ半島のエジプト軍は壊滅し、イスラエル軍はスエズ運河の東岸にまで達しました。こうなると運河の封鎖はエジプトの切り札にはなりません。

エジプトは3日目で早くも降伏してしまいます。シリアはその後も何日か抵抗を続けますが、やがて降伏を強いられます。

絶望的な状況の中で、わずかにパレスチナ・ゲリラだけが「戦果」を上げ、民衆のウサを晴らすことになります。もっとも伝統的なアル・ファタハがPLOの主体を掌握するようになった他、シリアの支援を受けた「サイ カ」,イラクと結びついたアラブ解放戦線(ALF),社会主義諸国と結びついたパレスチナ解放人民戦線(PFLP),パレスチナ解放民主戦線 (PDFLP)などがあいついで名乗りを上げました.

ゲリラ闘争の中で「伝説」となっているのが1968年3月の「カラメの戦い」です。イスラエル国内で子供を乗せたバスが,アルファタハの仕掛けた地雷に触れ大破しました.イスラエル軍は報復のためヨルダン領内に侵入し、ヨルダン川東岸の町カラメのアルファタハ基地を襲撃しました.アルファタハのコマンド部隊は,ヨルダン正規軍と協力しイスラエル軍の攻撃を撃退したといいます.

ゲリラ側の発表によれば、イスラエル側は死者29人,負傷者90人を出し、戦車・装甲車両など8台が破壊されました.いっぽうパレスチナ・ゲリラは97名が死亡,ヨルダン軍も207名の死者を出したといいます.しかしこれらの数字は、「英雄」に飢えていたアラブ側で多分に誇張されている可能性があります.

ついでPFLPがハイジャック作戦を開始しました.最初はローマからテルアビブに向かうボーイング707型エルアル機がハイジャックされるという事件でした。PFLPはその後の半年間に外国航空機を13機乗っ取ることに成功しますが、徐々に警戒態勢が強化されるに連れ作戦の実行は困難となっていきます.

こうして打つ手のなくなったPFLPは、イスラエルのロッド(現ベングリオン)空港で,日本赤軍兵士三人を使った無差別銃撃事件を起こしました.このとき市民26人が殺害され、ゲリラに対する世界の目は俄然厳しくなりました.

これらの闘争は耳目衝動的な効果はあるものの、実際の戦果はほとんどありません。それどころかイスラエル側の報復攻撃によりその数倍もの被害を受けることが多かったのです。今日考えれば、ゲリラ闘争は6日戦争の結果にうちひしがれたパレスチナ民衆に闘いを呼びかけたという意味においてのみ評価されるべきものでしょう。

 

ディアスポラの日々の始まり

ウィキペディアによれば、

ディアスポラとはギリシャ語に由来する言葉で、元の居住地を離れて暮らす民族の集団を指す。難民とディアスポラの違いは、前者が元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、後者は離散先での永住と定着を示唆している点にある。

まさにこの時期、パレスチナ人は難民からディアスポラへと立ち位置を変えています。パレスチナの故地を追われた人々は東に逃げヨルダンに住み着きました。北へ逃げた人はレバノンにキャンプを設営しました。西に逃げた人の多くはエジプトまでたどり着きましたが、一部はやがて帰る日を夢見てガザの町にとどまりました。

そしてイスラエルの理不尽な追撃を受ける羽目になったのです。

ここがパレスチナ問題の一番の鍵となる部分ですから、少し詳しく述べたいと思います。

最初のきっかけとなったのは70年のヨルダン内戦です。まずPFLPがスイス航空,TWA,BOACの旅客機三機を乗っ取り,ヨルダンの空港に強制着陸させました.PFLPは逃げる間際に旅客機を爆破させました.国際社会は激高します。ヨルダンは批判の矢面に立つことになります。

フセイン国王はこれを機にパレスチナ・ゲリラの追放を決断しました.自国の安全を第一と考えるなら当然の判断です。アラブの盟主と目されたエジプトはテンで頼りにならず、他の国も口こそ出すが手は出さないという状況のなかで、パレスチナ・ゲリラに手を貸すことは自殺行為に近いからです。

ヨルダン正規軍がPLOへの攻撃を開始し、首都アンマンで市街戦が展開されました.ゲリラはこの背後からの攻撃に対し無力でした。11日間の戦闘で5千の死者を出し、アンマン周囲からの撤退をよぎなくされます。アラファトはかろうじてアンマンを脱出し、レバノンへと移動します。これが70年9月のヨルダン内戦であり、パレスチナ人のあいだでは「黒い9月」と呼ばれています。

つまり、70年9月までは故郷に帰る希望をもった難民だったのが、それからは避難先からも疎まれるディアスポラとなって彷徨うことになったのです。

このあと、PLOの中核アルファタハもテロ活動に手を染めることになります。これが72年9月のミュンヘン・オリンピック事件です。作戦はファタハとPFLPの合同チーム「黒い9月」により実行され、最後はミュンヘン空港の滑走路で西ドイツ特殊部隊と銃撃戦となり,ゲリラ5人,人質9人が犠牲となりました.

イスラエルは報復作戦として軍兵士3000人をレバノン南部に送り込み、パレスチナ難民キャンプを襲撃し数百人を殺害しました.国際世論がイスラエルに同情的なのを良いことにした大虐殺です。報復のための市民大量虐殺はまさにナチスの手口であり、戦争犯罪として断罪すべきものです。

この後、イスラエルは国境など無きが如く、傍若無人な越境攻撃を繰り返すようになります。パレスチナ人は祖国を追われただけでなく避難先でもイスラエルの攻撃に怯える日々を送るようになりました。

 

第4次中東戦争とアメリカの立場

第4次中東戦争(ラマダン戦争)はこれまでの闘いの中でも、もっとも凄惨を極めたものでした。エジプトのサダト政権とシリアのアサド(父)政権はひそかにソ連と手を結び、戦争の準備を着々と備えていました。そして1973年10月、突然戦闘の火ぶたを切ったのです。

両国は50万の兵力、4500台の戦車、重火器3400台、戦闘機1080機が動員されました。南部戦線では1000台の戦車と10万の兵力がスエズ運河を渡り、対岸に橋頭堡を形成しました。北部戦線では1400台の装甲車と600台の戦車、三個師団がゴラン高原に進出します。

しかしこれだけの規模での攻撃にもかかわらず、アラブ軍はわずか10日で惨めな敗北を遂げます。理由はいろいろありますが、最大の理由はアメリカのテコ入れでした。この戦争の本質をソ連の中東進出だと見たアメリカは、それまでの控えめなイスラエル寄りの態度を改め、全面支持の立場に切り替えました。

当時すでにソ連に圧倒的な技術力の差をつけていたアメリカは、最先鋭の兵器を惜しみなくつぎ込んだのです。エジプトのミグ19はファントム戦闘機の敵ではありませんでした。砂漠の闘いで制空権を失えば、どうなるかは目に見えています。スエズ運河を渡ったエジプト軍の戦車隊は退路を断たれました。

アラブ軍は戦車2000台を失い、1万人の死者を出しました。いっぽうイスラエル側も戦車550台が破壊され兵士2800名が死亡しています。エジプト軍部隊の地対空ミサイルはイスラエル機50機を撃墜しています.

しかし、これだけの犠牲を払ったイスラエルは並ぶものなき中東の覇者となりました。これ以降エジプトはアメリカよりの姿勢を強め、イスラエルと事を構えるのを回避するようになります。

 

苦渋の妥協と平和攻勢

残されたパレスチナ人にとっては、根本的な戦略の変更がもとめられました。一つは全土の奪還という方針の断念です。それは同時にイスラエルという国家の承認につながります。もう一つは武力での闘争という形態の放棄です。ゲリラ戦やハイジャックをこれ以上続けても益するものはなく、犠牲はあまりに大きいものがあります。さらにそれは国際的な支援の枠を大幅に狭めてしまいます。

この方針転換を決定する歴史的な会議となったのが、1974年6月に行われた第12回パレスチナ国民評議会(PNC)です。この会議では、ガザとヨルダン川西岸に「民族的権威を設立すること」をふくむ10項目の方針を採択しました.過激な戦術に固執するPFLPはこの方針に反対。一部は「アブ・ニダル派」を結成してPLO幹部を付け狙うようになります。

同年秋、ラバトでアラブ首脳会議が開かれ、PNCの方針を支持することで合意しました。そしてパレスチナ国家建設の権利を承認しPLOを唯一の代表としました.PLOは急速に影響力を拡大し,世界各地に100カ所を超す代表部や事務所を開設するに至ります.

これには、ラマダン戦争時産油国が一斉に石油戦略に出たことも大きな影響を与えています。いわゆる第一次石油ショックです。日本では狂乱物価となり、トイレットペーパー騒動まで持ち上がりました。

元々がイスラエルの横紙破りが原因でこうなったわけですから、パレスチナに同情的な国際世論はこの方針転換を大歓迎しました。国連総会は,シオニズムを人種差別主義と非難する決議を採択.そのいっぽうでパレスチナ人の民族自決権とパレスチナ国家の樹立の権利を認め、PLOをオブザーバーとして招請しました.アラファト議長がオリーブの枝をかざしながら行った総会演説は、いまでも語りぐさです.

アラファト演説のさわり
革命家とテロリストの違いは,何のために戦っているかという点にあります.正しい目的を持って,自分自身の土地を侵入者・入植者・植民地主義者から解放し,自由になろうとしているものを,決してテロリストと呼ぶことはできません.でなければ,イギリス植民地主義者からの解放のために戦ったアメリカ人は,テロ リストになります.ヨーロッパでのナチスに対するレジスタンスはテロリズムになります.そしてこの会議場におられる数多くの人々もテロリストということになるでしょう.

パレスチナ人、とりわけゲリラ闘争などと関係のない一般民衆にとっては、一条の明るい光が差し込んできたようでした。ガラリア地方では、土地取り上げに反対する「土地の日」統一行動が取り組まれ、「民族はひとつ,戦いはひとつ」のスローガンの下,パレスチナ人数十万人が行動に立ち上がりました.

76年にはヨルダン川西岸地区で総選挙が行われ、PLO支持派と共産党が大勝利を勝ち取りました.ナザレ市では初めてパレスチナ人の共産党員市長が誕生しました.