パレスチナ 苦難の歴史

2013年6月

 

1900年 シオニストの入植

20世紀のはじめ、パレスチナはオスマントルコ帝国の一部でした。当時の人口は63万人と言われます。

同じイスラムでも、オスマントルコはトルコ人、パレスチナはアラブ人ですから、異民族支配という状況には変わりありませんでした。しかしトルコ人は圧倒的少数で、パレスチナ人が土地を追い出されたりすることはありませんでした。

1901年はネガティブな意味で記念すべき年です。この年ユダヤ国民基金が創設されたのです。ヨーロッパに散在するユダヤ人は、パレスチナこそ我らの祖国だと主張し、金を出しあってパレスチナの土地を買い,入植を奨励したのです。

やがてユダヤ人はテルアビブを中心として「祖国」を建設し始めました。と言ってもまだこの頃は一種の宗教的色彩を帯びたボランタリーなものでした。

 

第一次世界大戦 パレスチナの「独立」とユダヤ人「準国家」の成立

第一次世界大戦でパレスチナの領土を占領したのはイギリスでした。とはいえ、アラブ人の力もなみなみならぬものがあり、イギリスはこの地域を大アラブ王国として独立させることにしました。首都はシリアのダマスカスに置かれ、パレスチナ地方もこれに含まれることになりました。

独立と言ってもイギリスの信託統治下における自治領なので不完全なものですが、正直、アラブ人にも統治・行政能力はなかったので、やむをえざるものがありました。

しかしこの時イギリスはせこい手を使ったのです。イギリスはユダヤ人の銀行家から多額の戦費を借りていたので、ユダヤ人の要求に応える必要がありました。そこでイギリス政府はパレスチナにユダヤの「民族的郷土」を建国することを承認したのです。

民族的郷土(National Home)とは,主権を持った国家ではないものの,その道程にある政治的存在なんだそうで、訳が分かりませんが、まぁ後は当事者同士でうまくやってくれというようなものでしょう。

まあそれでも良いか、とパレスチナ人をふくむアラブ人はたかをくくっていました。パレスチナの国土は地中海海岸とヨルダン川河谷に挟まれた高原地帯で、放牧民の暮らす半砂漠の荒れ野が広がっていましたから、そこにユダヤ人が入植して「ユダヤ共和国」を作っても大したことはあるまい、そのうち辛抱できずに退散するだろうと思っていたのでしょう。

シリアのアラブ国王はシオニストの代表ワイツマンと会見し、「パレスチナへのユダヤ人の大量移民を奨励する」ことで合意しています.少なくとも最初は、アラブは宥和的だったことが分かります。

ところが、第一次大戦が終わった後、イギリスはこれらの約束は裏切られます。イギリスはシリアとレバノンをフランスに与え、それ以外のイラク,パレスチナを国連委任統治という名目で自国の植民地としてしまいます。当初は現在のヨルダンもふくめてパレスチナでした。

いっぽうでユダヤ人との約束はそのまま守られました。こうしてパレスチナ人はイギリスの支配下にユダヤ人と強制的に併存させられるようになったのです。

 

準国家から国家への動き

パレスチナのアラブ人は、この状況に大いに不満でした。そこでイギリスに対し、5項目要求というものを提出します。その要求はきわめて穏和で、いま考えても説得力のあるものでした。

つまりイギリスは出て行ってください。残った者たちはユダヤもアラブも相和してパレスチナの国造りを目指しましょうというものです。それで国の形が決まるまでは、とりあえずユダヤ人の入植は止めましょうということですから、きわめて常識的な対応です。「善きサマリア人」そのものです。その大枠は今日のPLOにも継承されています。

高まるアラブ人の不満に対応を迫られたイギリスは、さらに次の手を考えだしました。それはパレスチナをヨルダン川を境に二つに分けるというものです。こうしてヨルダン川の東岸に「トランスヨルダン首長国」がつくられ、パレスチナ西部は「英領パレスチナ」として直接統治下に置かれることになりました。

うるさい連中を切り離して、ユダヤ人を直接の庇護のもとに置こうということですから、事実上イギリスがイスラエル建国の足がかりを作ったようなものです。当時の国際連盟もだらしなくて、この措置を承認するどころか、「この地に対するユダヤ人移民と開拓」の助成をイギリスに促したのです。

これが1922年のことですが、当時すでに6万人のユダヤ人が入植していました。これに対し先住のパレスチナ人は67万人とされています。人口でいうと1対10ですがユダヤ人には金があります。工場を立て、店を開き、機械化農業を展開しました。そうするとかなりのパレスチナ人が直接・間接を問わず雇われることになるので、影響力はすでにイーブンの状態にまで達していました。

そうすると、両民族の関係は階級的色彩を帯びるようになります。これらの労働運動を指導したのはパレスチナ共産党でした。

もう一つ、ユダヤ人は元からいるパレスチナ人から土地を買ったり借りたりして農業や工業を始めるのですが、とかくこの手の契約に揉め事はつきものです。とくにパレスチナの地には耕作可能な農地は限られていますからたちまち紛争が勃発します。

 

ユダヤ人武装組織の登場

最初の大規模な衝突が、1928年の「嘆きの壁」事件です。エルサレムにある「嘆きの壁」というのはユダヤ人にとってもアラブ人にとっても聖地でした。ここでの集会をめぐり双方の過激派が衝突。ユダヤ人100人以上が殺されます。イギリスはエジプト駐留部隊を派遣し鎮圧しますが、その過程で今度はアラブ人100人以上が殺されます。

これを契機にユダヤ人は武装組織の形成を急ぎました。「イルグン・ツヴァイ・レウミ」という部隊は後の首相ベギンが指揮していました。ユダヤ人社会はパレスチナ人を暴力的に排除しながら拡大し、名実ともに国家の様相を示すようになりました。

この傾向を一気に進めたのが33年のナチス政権の成立でした。欧州各国からの流入で,一気にユダヤ人人口が40万人に増加しました.パレスチナの土地の5.7%がユダヤ人の手に渡りました.

この怒涛のようなユダヤ人の流入に、アラブ人の反発が強まります。36年にはユダヤ人の移民停止を要求して「アラブ大反乱」と呼ばれる暴動が起きます。一部はイギリスの地区弁務官を暗殺するなどのテロ活動を展開するに至ります。

アラブ人の抗議はますますユダヤ人の危機感を強めます。ヨーロッパ各地でユダヤ人が漂泊の民となっている。これを一人でも多く救出しパレスチナの地に連れ出したいという気持ちの現れでしょう。しかし地元からは猛反発を喰らい、肝腎のイギリスもこれ以上のユダヤ人を送り込むことには及び腰です。

それを押しこむには力しかない、ということでしょうが、先住者の事情はお構いなしです。シオニストの指導者ジョセフ・ワイツは,「アラブ人のすべてを,この土地から隣接諸国に移住させる以外に方法はない.アラブ人の一村落,一部族たちとも残してはならない」と主張しました.

 

イスラエル建国へ

1942年、ユダヤ人幹部のベングリオンらは、イギリスに対しイスラエル国家の創設を要求する「ビルトモア綱領」を発表しました.この宣言はパレスチナのみならず全世界のユダヤ人の熱狂的支持を受けました。シオニスト武装組織は移民制限に抗議してイギリスへのゲリラ攻撃を開始します.ベギンの首には二千ポンドの賞金がかけられました.

1945年、終戦とともにアラブ諸国では独立の動きが相次ぎます。シリアがフランスから、ヨルダン、イラクがイギリスからそれぞれ独立を果たします。そのなかでパレスチナの動きが注目されるようになりました。

アラブの支援受けながらアフリカ戦線を戦ったイギリスは股裂き状態になり、パレスチナの統治を放棄します。イギリスに後始末を押し付けられた国際連合は、パレスチナ分割を決めます。分割は、アラブにとってはまことに理不尽ではありますがやむを得ない措置であったと思われます。なぜならパレスチナ人との共存をあくまで拒むユダヤ人が60万人に達していたからです。共存を主張していたパレスチナ共産党はこの時までに内部分裂し、事実上崩壊していました。

しかし分割の比率はきわめて不当なものでした。人口で3分の1,所有地で6%を持つに過ぎなかったユダヤ人が,パレスチナの56.5%の土地を獲得することになったのです.これはどういうことを意味するか。考えなくても分かります。パレスチナ人の土地からの追い出しを国際的に承認したということです。

ここからパレスチナ人の苦難の歴史が始まります。