“舞浜会議”をグーグルで検索すると、まっさきにこれが出てくる。

岩波書店から出版された朝日新聞の連載記事だ。

その冒頭に、「今井・宮内論争」というのが出てくる。

いかにも朝日の臭いがするドラマ仕立ての文章だ。

「企業は,株主にどれだけ報いるかだ.雇用や国のあり方まで経営者が考える必要はない」
 「それはあなた,国賊だ.我々はそんな気持ちで経営をやってきたんじゃない」
  94年2月25日,千葉県浦安市舞浜の高級ホテル「ヒルトン東京ベイ」.大手企業のトップら14人が新しい日本型経営を提案するため,泊まり込みで激しい 議論を繰り広げた.論争の中心になったのが「雇用重視」を掲げる新日本製鉄社長の今井敬と,「株主重視」への転換を唱えるオリックス社長の宮内義彦だっ た.経済界で「今井・宮内論争」と言われる.

この文章は「結局,舞浜が,企業も国も漂流を始めた起点ということになった」という品川正治のセリフで閉められている。

いかにも大げさで好みではないが、「97年問題」の序曲という意味では面白いエピソードである。

94年はじめという時期は、バブル後不況のまっただ中で、各企業とも莫大な含み損を抱え四苦八苦していた時代だ。

しかもアメリカの外圧はとどまるところを知らず、露骨な内政干渉まで開始している。

景気の後退、資産内容の悪化、対米輸出の鈍化という三重苦が日本経済を襲っていた。このままでは立ち行かないという焦りはすべての産業人に共通していたと思う。

私は、舞浜会議は“ならず者”経営者の反乱宣言として捉えるべきだろうと思う。

おそらく彼らの主張は個別には採用せざるをえないものであったろう。97年問題での対応を見ると、むしろ遅すぎたのかもしれない。

首切り・合理化は世の習いであるし、不況の中で経営を守るためにはリストラは避けられない。いいとは言わないがやむを得ない場合はあるし、94年はまさにそういう局面だった。

宮内・牛尾らはそれを思想にしてしまった。そういう企業こそが良い企業なのだと開き直った。

そしてその理論的裏付けとして、80年代以降のアメリカの経営思想を直輸入した。それはアメリカの外圧をも背景としていた。ところが産業界幹部はこれまでの「日本型経営」路線に自信をなくし、アメリカの外圧に対して思考停止状態に陥っていた。

97年から00年までの不況は、バブルのつけを払わされた時期だったから、誰がどうやってもあまり選択肢はなかったと思う。

それをやむをえざる事態と見るのか、それこそが企業精神の発露と見るのかは決定的な違いがある。

それが今世紀に入ってからの路線の問題として浮かび上がってきたのだろうと思う。