ナチス・ドイツ「経済奇跡」年表

「経済奇跡」とは30年代のドイツが、ハイパーインフレを起こさずに景気の回復と失業の減少に成功したことを指す。もう一つの側面としては、この時期にドイツが再軍備を行い急速に軍備を拡張したことである。

1929年

10.24 世界恐慌が始まる。アメリカ資本によって支えられていたドイツ経済は破綻。

12月 ヒルファーディング蔵相が辞職。ヒルファーディングはアメリカの支援を当てにして外債の発行を計画するが、ライヒスバンク総裁シャハトの反対に会い挫折した。

1930年

3.07 中銀総裁のシャハト、ヤング案に反対の意向を表明。政府と対立し辞職。その後ナチに接近。

ヤング案: ドイツの賠償方式の改正案。29年2月にアメリカの銀行家オーウェン・ヤングが提案したもの。賠償金額は大幅に減額されたが、60年間にわたる返済を義務付けられる。シャハトはドイツ首席代表としてこれを受諾していた。

3月 恐慌のため財政破綻の危機に瀕したミュラー内閣が倒れ、ブリューニング内閣成立。厳しい緊縮政策で危機の乗り切りを図る。

ブリューニングは大統領緊急命令として、超法規的に公務員給与切り下げ,社会政策経費の削減,所得税・消費税の増徴などの緊縮策を打ち出した。これは租税収入の激減をもたらし、とくに自治体財政の崩壊が銀行の債権焦げ付きと金融危機をもたらした。

9月 国会選挙。ヤング案が争点となり、反ヤング案を掲げる共産党とナチス党が躍進。それを契機に外資引き揚げ,国内資本の逃亡が大量に生じる。

9月 社会民主党、「資本輸入の増大による資本形成の増大,これのみが現在唯一の標語であり,経済政策的に合理的なのである」とし、緊縮政策に対する「寛容路線」を本格化する。

寛容路線: ①ドイツ資本主義の危機を克服するためには「資本形成の促進」が不可欠である、②そのためには外資の継続受け入れが絶対条件である、③そのためにはヤング案にもとづく賠償支払いの継続が必要だという三段論法。社会民主党を含む「ワイマール保守派」の共通認識となった。

 

1931年

5月 オーストリア・クレジット・アンシュタルト銀行が支払停止。ドイツ信用恐慌の激化の引き金となる。

6月 ライヒ銀行、半月で金・外貨準備の半分以上を失う。英・米・仏中央銀行と国際決済銀行が1億ドルを緊急融資。

6.20 アメリカのフーバー大統領、戦債・賠償のモラトリアムを提案する。

7.13 ドイツ第二のダナート銀行が支払停止に陥る。政府は「銀行休業」を命令。事実上の「兌換停止」措置となる。

7.20 ロンドンで対独債権国会議開催。ドイツと債権者銀行との支払猶予に関する協議開始で合意。

7月 労働協約制度が停止される。政府は10~15%の賃下げを命令。実質賃金は恐慌前に比し30%以上の下落を示す。政府は一方で銀行救済のため中銀貸出金利を引き下げる。

9月 外積務据置協定の締結、賠償支払に関するフーヴァー・モラトザアムにより、ドイツの公・私対外貨務は「凍結」される。

10月 ナチスなどからなる「ハルツブルク戦線」が結成される。ブリューニングの緊縮路線に反対。シャハトが大企業とのパイプ役となる。

12月 物価・賃銀・利子の強制的引下げを骨子とする第四次緊急命令が公布される。

第4次緊急命令: イギリスの[金本位制離脱」=平価切下げに対抗して、ドイツの国際競争力を強化するために、賃銀・給与を削減。大衆の購買力の低下に対応するために消費者物価を「補正」するもの。これにより物価は7.2%の低下を示すが、輸出は著しく減少。

 

1932年

2月 大銀行の再編に関する緊急命令が公布される。「2月整理」といわれる。

2月 不況がピークに達する。

登録失業者が600万人。非登録者を加えた推計では778万人。失業率は40%を超える。金・外貨準備は10億ドルを割る。

5月 ブリューニング内閣が崩壊。パーペン内閣が成立。新規雇用を奨励する「租税証券」を開始、総額3億マルクの公共事業計画(パーペン計画)を実施する。

7月 ナチスが経済振興策を発表。党内左派といわれるシュトラッサーが起草したもの。政権獲得後は白紙に戻される。

11月 シャハト、ティッセンら財界人からなる「ケップラー・グループ」、ヒンデンブルク大統領に対しヒトラーを首相にするよう請願。

12月 シュライヒャー内閣が成立。雇用創出のため5億マルクの「緊急計画」を決定。

1933年

1月 シュライヒャー内閣が倒れる。しかしパーペン、シュライヒャー内閣の間に景気は反転ないし底入れした。

1.30 ヒンデンブルク大統領、ヒットラーを内閣首班に指名。失業者の削減と自動車産業の拡大を主眼とする。

2.01 ヒットラー、第一次4カ年計画の開始を発表。「失業に対する強力なかつ, 包括的な攻撃によるドイツ労働者の救済」を唱える。

2.08 ヒトラー、閣議において「あらゆる公的な雇用創出措置助成は, ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべき」と強調。

2月 国会議事堂放火事件をでっち上げ、全権委任法を押し通す。

2.20 ヒトラー首相、実業界首脳25名と会談。マルクス主義の根絶と再軍備を打ち出す。財界は300万マルクの献金を約束。

3月 ライヒスバンク総裁にシャハトが就任。

Horace Greeley Hjalmar Schacht: ドイツ生まれアメリカ育ち。母は男爵家の出身。父はアメリカかぶれで米市民権をとっている。銀行家としてキャリアを積み、ドイツ国家銀行の頭取を務める。第一次大戦後、ドイツ民主党の創立に参加。23年に政府の財務担当者となり、国内不動産を担保とするレンテンマルク(1兆マルクに相当)を創設。ハイパーインフレの抑えこみに成功。

5月 シャハトの発案により「冶金研究会社」(MEFO)設立。クルップ、シーメンスなど大企業への資金提供のための国策トンネル会社

大企業がMEFOあてに手形(メフォ手形)を発行し、中銀が唯一の引受人としてこれを割り引く。大企業の手形は中銀の裏付けを持つ擬似貨幣となる。現在の「量的緩和」に近い金融操作。

5月 すべての労働組合が解散され、労働戦線に一本化される。

5月 ヒトラー、雇用創出の2つの出発点として, 減税による個人の持ち家所有助成及び, 全国の道路網拡充を挙げる。

5月 ヒトラー、財界幹部と協議。このあと閣議で、企業の税負担の5年間据え置きを指示、社会政策支出削減をもって代替財源とする。

財界との協議に基づき、アウトバーン設立法(6月)、租税権限法(7月)、自動車税廃止(4月実施済み)などが決まる

7月 「農村補助労働」が始まる。16歳~21歳の青少年に「自発的」な農作業を促す。拒否した場合は失業手当を失う。年平均16万人が作業に従事する。失業者の減少に伴い、36年以降は事実上廃止。

7月 強制カルテル法が成立する。

新規企業の設立は禁止された。同業企業はカルテル設立を強制された。カルテルは国家による監視と規制のもとに置かれることになった。

8月 シャハト、ライヒスバンク総裁のまま経済相を兼任。経済政策を主導する。

9月 「帝国食糧団体暫定設立法」が成立。分野別の経済団体が設立され、国がその指導権を掌握する。

9月 失業対策法(ラインハルト計画)が実施される。週40時間労働の厳守がうたわれ、時間外労働は禁止される。

11月 価格停止令が布告される。商品の価格統制と現下の管理が国の手に委ねられる。

1934年

2月 経済有機的構成準備法が施行される。「産業報国会」と似たような組織。

5月 ヒットラー、財界首脳との会談で「道路網整備と住宅増加が雇用増大の出発点」と強調。財界は法人税の5年間据え置きと社会保障支出の削減を求める。

6月 ヒットラー政権、第一次失業減少法(ラインハルト計画)を策定。アウトバーンの建設を半奉仕活動的な雇用で賄うとし、「非正規雇用」により失業率の低下を狙う。

7月 経済措置法が成立。シャハトは2ヶ月間、既存の法律の枠を超えて権限行使する権限を手に入れる。政府はアウトバーンと自動車産業に投資を集中する一方、繊維・紙パルプ・ラジオなどの分野には投資禁止措置をとる。これを受け、企業数は大幅に減少し、資本集中が進む。

8月 シャハト、中銀総裁のまま経済相を兼任。経済措置法にもとづき商工会議所令を発する。経済大臣が会頭・副会頭の任免権を含む監督権を持つ。これにより全国の中小企業がナチ党体制に組み込まれる。

9月 アウトバーンの建設が開始される。1935年6月までに4億マルクが投資され、最大12万人の雇用が行われる。

アウトバーン関連労働者の実態: かなりの人々は“ボランティア”として雇用され、少額の手当と衣食住の支給が行われたのみであり、賃金と呼べるほどのものは受け取ってない。

9月 第二次失業減少法が実施される。住宅建設促進のため、住宅補修や改築が推進される。

12月 自動車生産額は過去最高の28年に比し1.5倍に達する。雇用者数も28年の水準を回復。一方原料不足により繊維など消費財分野の生産は停滞。

1935年

5月 シャハト、さらに戦争経済全権にも就任。経済政策の決定権を集中。再軍備の多面の国債の国債増大を隠蔽するためメフォ債を発行。

メフォ債は事実上の国債だが、メフォ(Metallurgische Forschungsgesellschaft)というトンネル会社を設立し、私債のように見せかけた。38年までに120億マルクの債券が発行された

3月 再軍備宣言。徴兵制が再開される。これにより国防軍に86万人の「雇用」が生まれる。その後の軍の拡大によりほぼ完全雇用が達成される。

12月 自立小農民を保護する「血と土」政策が失敗。農業生産は停滞し、食糧不足が顕在化する。

35年 19~25歳の青年を対象に、勤労奉仕を強制する法律が制定される。

勤労奉仕により年間約20万の青年が、結婚貸付により約数十万の女性が労働市場から遠ざけられる結果となる(川瀬)

1936年

8月 ヒットラー、「第二次四カ年計画」の秘密覚書を作成。自給自足体制の確立と「4年以内に戦争を可能ならしめるための国防経済体制」への移行を骨子とする。

9月 第二次4カ年計画が策定される。諸外国との協調を説くシャハトは計画から外され、ゲーリングらナチス主流派が主導権を握る。

11月 シャハト、新経済計画と対立し、経済相を辞任。

11月 「物価ストップ令」が発令される。過剰な通貨供給と軍需拡大によって、インフレの危機と外貨不足がいっそう深刻となる。

12月 景気が本格的に回復する。

GNPは32年に比し50%増、国民所得は42%増、工・商業生産指数が88%増、財・サービスへの公共支出が130%した。ただし賃金の増大はなく、民間消費指数は16%増にとどまった。国家債務が110億マルク増大し、外貨の不足はさらに深刻となり、資源不足が顕在化する。

1937年

37年 ほぼ完全雇用が達成される。

ドイツの登録失業者数の推移(単位 千人)


1929年

1932年

1934年

1937年

失業者数(年平均)

1899

5575

2713

912

11月 4カ年計画全権代表のゲーリングとシャハトが衝突。シャハトは経済相を解任される。

ゲーリングは「あらゆる大企業をアーリア化することが私の務めである」と公言。ユダヤ系企業の資産売却と国外退去を促す「自発的」アーリア化を推進。これに前後して水晶の夜事件が発生。

1938年

軍事費調達のためのメフォ手形が廃止される。残存債務は国債に移行。この時点での発行残高は120億マルクに達する。さらに国債も32年の102億マルクから190億マルクまで膨れ上がる。

1939年

1月 シャハト、インフレの進行を理由に軍事力増強と領土拡大政策の中止を求める。ヒトラーはこの提言を拒否し、シャハトを中銀総裁から更迭。

44年、シャハトはシュタウフェンブルクのヒトラー暗殺事件に連座したとして逮捕され、強制収容所送りとなる。

9月 ポーランド侵攻。第二次世界大戦が始まる。

 

ウィキペディア および 「ナチスドイツの経済回復」 川瀬泰史 他の資料より作成