ラテンアメリカ “フォルクローレ、もしくはプロテストソング”の流れ
「学習会」ということで、一晩でやるために作った文章です。非常に荒っぽい筋ですが、そういうことでご容赦を。
源流はピート・シーガー
フォルクローレというのは直訳してしまえば「民謡」ですが、日本のフォークと同じく、あの頃の若者の文化的なムーブメントと捉えるべきでしょう。
最初に大胆な仮説を立ててしまいますが、ラテンアメリカの“フォルクローレ、もしくはプロテストソング”の流れの源流はピート・シーガーだと思います。
もちろん、ユパンキなどの民謡歌手もいました。ラテンアメリカで先住民の音楽を採集するいわゆる「民俗音楽」研究者もいただろうと思います。私は詳しくはありませんが。
ピート・シーガーにもウディー・ガスリーというカントリー・ミュージックの先駆者が居ました。労働者の闘いに関する歌もたくさん作っています。
ただピート・シーガーはシングアウトという形式で、民衆と結びつけ、ポピュラー・ミュージックのシーンと結びつけました。だから彼の歌はフォークロアともなり、メッセージソングともなり、スタンダード・ポップスともなったのです。そこから反権力性を過激かつ曖昧化したのがボブ・ディランです。
ピート・シーガーのメモリアルソングは「我らは勝つだろう」(We shall overcome)です。
ラテンアメリカでのこういうジャンルの曲は“フォルクローレ”というカテゴリーにふくまれます。これはフォークロアの直訳であり、“英語っぽいスペイン語”です。
USフォークの影響を受けた青年・学生たちが“先住民の民謡”を再発見し、これらの歌を演奏するムーブメントとして始まったのだろうと思います。
フォルクローレ運動の創始者 ビクトル・ハラ
フォルクローレ運動がもっとも盛んだったのはチリでした。なぜなら人民連合政府が樹立され、闘いの中に若者の文化が花開いたからです。ついでアルゼンチンとウルグアイにもフォルクローレ文化が拡大しました。
フォルクローレは先住民の音楽を発掘する運動としての側面を持っていましたが、南米の中でも白人の構成比が高い国で起きた運動であるために、白人知識層を主体とする運動でもありました。いわば左翼系若者のファッションだったのです。
運動の側面を強調する場合にはヌエバ・カンシオン(新しい歌)と呼ばれます。普通ならカンシオン・ヌエバですが、語順を英語風にすることで新しさの文化的意義を強調しています。ここではフォルクローレで統一しておきます。
チリのフォルクローレを代表する歌手はビクトル・ハラ(Victor Jara) です。彼のメッセージは「耕すものへの祈り」として結実します。これはコンクールに応募して一等になった作品で、活動家のみならずポピュラーミュージックとしても、みんなに愛されました。ハラにはメッセージソングライターとしての側面と、若者向けのソングライターとしての顔の2つがあります。ロックの代表が「平和に生きる権利」(El Derecho De Vivir En Paz)です。
メッセージソングの代表がアジェンデ選挙のキャンペーンソング「我らは勝つ」(Venceremos)です。リリカルな側面が強調されたのが「アマンダの祈り」です。クーデター直前に作られた「宣言」では歌は哲学的な響きを帯びてきます。
これに影響されて、アルゼンチンではビクトル・エレディア、ウルグアイではアルフレド・シタローサが登場してきます。ブラジルではポップス出身のシコ・ブアルキがフォルクローレとの融合を試みるようになっていきます。
一方、この頃から、ビートルズに影響されてロック音楽が各国でブームを引き起こすようになりました。アメリカではレッド・ツェッペリン、シカゴ、BSTなどがけたたましいエレキの音に乗せてベトナム反戦などのメッセージを送り出します。ラテンアメリカではブラジルのカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルを先頭とするトロピカリア・グループ、アルゼンチンではレオン・ヒエコらが騒々しく登場するようになりました。
メルセデス・ソーサ 抵抗の歌としてのフォルクローレ
73年9月にチリでクーデターが起こり、その後次々にラテンアメリカ諸国が軍事独裁化していきます。ミュージシャンもその多くが海外に亡命していきます。
そんななかで祖国の民主化をもとめる運動の先頭にフォルクローレが立つことになりました。キラパジュンの「団結した人民は屈しない」(El pueblo unido jamás será vencido)がテーマソングになります。フォルクローレはファッションではなく闘いの歌となります。
メルセデス・ソーサ(Mercedes Sosa)は元々は民謡歌手で、アタワルパ・ユパンキの歌を歌わせたら天下一品でしたが、軍事独裁政権に国を追われてからはフォルクローレ運動の先頭に立ち、“ラテンアメリカの母”とまで呼ばれるようになりました。亡くなったときは準国葬扱いでした。
ソーサはフォルクローレの歌手には珍しく、作曲もしないし、ボンボという太鼓を叩くほかには楽器も演奏しません。その代わりいろんな作曲家の持ち歌をカバーしています。だからメルセデス・ソーサにカバーしてもらうのはとても名誉なことなのです。
最も知られているのはチリのビオレータ・パラの歌をカバーした「人生よありがとう」です。もちろんビクトル・ハラの歌もたくさん歌っています。しかしアルゼンチンでは、レオン・ヒエコの歌「ただ神に祈ることは」 (Solo le pido a Dios) のほうが有名です。
ほかにキューバのシルビオ・ロドリゲス、パブロ・ミラネス、ブラジルのミルトン・ナシメントなどの曲も歌っています。
その後のフォルクローレ
80年代に多くの国が民主化を実現し、その後フォルクローレ運動は一段落したようにも見えます。しかし民衆の闘いが続く限り、運動としての「民衆の歌」の精神も引き継がれていくでしょう。
曲のカテゴリーとしてはとてもフォルクローレとはいえませんが、ベネズエラの「チャベスは去らないぞ」(
YouTube リンク集
ピート・シーガー
lanningck さんのサイトでは、Pete Seeger's 90th Birthday Concert がアップされているので是非ご覧のほど。ついでにウディー・ガスリーの元歌だが、ピートのヒットさせた歌。
ビクトル・ハラ
ビクトル・ハラの名曲はたくさんあるが、メッセージ性も含めればやはりこれだろう。
平和に生きる権利 音質は悪いが、テレビ出演した時の貴重な映像が残されていて、演劇者としての特質がよく出ている。
アマンダの思い出 Up主がとても音を綺麗にしてくれており、聴きやすい。
ビクトル・ハラの歌ではないがチリ人民の闘いを象徴する歌
団結した人民は屈しない ついでながら、このジャズヴァージョンがとても良い
"Giovanni Mirabassi - El Pueblo Unido Jamas Sera Vencido"メルセデス・ソーサ
80年代後半に出たベスト盤が、いまもベスト盤である。
人生よありがとう(ビオレータ・パラ曲) これは80年録画の映像が見られる。函館で実物を見たとき(78年)はこんな感じだった。
耕すものへの祈り(ビクトル・ハラ曲) 少し音が古いが最高の演奏で、ビクトル・ハラの自演よりはるかに良い。
ただ神に祈ることは(レオン・ヒエコ曲) 84年のブエノスアイレスでのコンサートの映像がアップされていて、ヒエコとのデュエットを見ることができる。レオン・ヒエコは札幌にも来たが聞きそこねた。ガラガラだったそうだ。
アルフォンシーナと海(アリエル・ラミレス曲) いわゆる芸術歌謡だろう。ソーサの代表曲であることは間違いない。
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