アキレスと亀のパラドックスにせよ他のものにせよ、第三者的理解というのには限界がある。
ゆく川の流れは絶えずして、と世の無常を慨嘆するのは勝手だが、「ゆく川」の側にもそれなりの事情があるのであって、たんなる「無常」の表象ではない。それこそ「大河ドラマ」のような実体をともなう現存在があるのである。
それを理解するためには川の側にたって物事を眺めなくてはならない。そこに主客の転倒が起こる。
此処から先は、「鏡の国のアリス」のように、随分モノの言い方が面倒になるので省略する。レトリックを楽しむ御仁に付き合うつもりはない。
それで「川の側に立つ」というのはどういうことかというのは、「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」ということである。
例えばモルダウという曲がある。
モルダウ川が山間のせせらぎから急流となりやがて大河となって平原の彼方に流れ去っていく一連の過程を音楽にしたものであるが、これが川というものだという主張でもある。
それは方丈の庵の窓越しに見える川の流れを切り取って、「これが川だよ」と言われちゃ困るという主張でもある。
認識論としては、自己の立場を捨て、虚心坦懐となり、川の立場にたって考えることだ。それが翻って自己の立場を豊かにすることにつながるのだ。

それが叙述的理解ということになる。これは「己を貧しくする」という点では、非常に宗教と似ているところがある。