「弁証法」という言葉は、弁証法の創始者であるヘーゲルが名付けたのだからしょうがないのだが、やはり適当ではないようだ。
元々ギリシャ哲学から引っ張ってきた言葉だが、どうせ古いものから探すなら、わたしは般若心経の「色即是空」のほうが当たっていると思う。
ただ、「色即是空」にはニヒルな価値観が内包されている。とくに日本では「世の無常」という鴨長明的なニュアンスが色濃くなっている。もとのインド哲学ではどうなっているのだろうか。

私は弁証法の極意は「存在は過程である」ということではないかと単純化している。

「存在は過程である」ということは、認識論的に見た場合と、実践論的に見た場合には意味合いが違ってくる。

認識論として考える場合は、弁証法は「4次元的な発想」が必要だという思考ツールとなる。
ハイゼンベルクの「存在は確率である」という量子力学的理解は、存在を時間の概念を排除して規定しようとすれば、そうなるほかはない。

「物質は消滅する」のではなく、見えなくなってしまうのである。誰が見ても、まごうことなく目の前に存在している物質が、量子力学という偏光レンズをかけると見えなくなってしまうのである。