ルワンダ内戦の始まり

80年代に入るとコーヒーの国際価格が暴落しました。従来のコーヒー輸出国に加え、新興国が争ってコーヒー生産に参加したための値崩れです。ネスレなどの多国籍企業はこれを見て徹底的に買い叩きました。「コーヒー飢餓」が世界中で出現し、農民がバタバタと倒れていきました。

ルワンダも例外ではありません。コーヒー栽培というのは零細農民でも気軽に手が出せる商売ですが、逆にダメになった時は悲惨です。当然政治に対する不満も募ります。政府も債務に追い立てられ、内部矛盾も深まります。そこへ持ってきてIMFが厳格な構造調整プログラムを押し付けたので、国内はめちゃくちゃになります。

90年10月、RPFが侵攻作戦を開始しました。ウガンダ国境地帯に橋頭堡を確保しますが、RPF側も後が続かず膠着状態に入ります。事態は最悪です。しかも人口は増え続け、92年には750万人に達しました。人口密度はアフリカで最高となります。

2年後の92年7月、ルワンダ政府とRPFの間で停戦協定が結ばれました。とにかく戦闘をやめないことには国が持たなくなってくたのです。そして翌93年8月にはタンザニアのアルーシャにおいて和平協定が結ばれました。これはRPF部隊の国軍への編入、ツチ人の政治的権利の保証などを織り込んだもので、周辺国や国連が後押しして成立したものでした。

国連はこの和平協定を実現するために安保理決議を採択しました。決議に基づき、国連ルワンダ支援団(UNAMIR)が派遣され、監視に当たることになりました。しかしこの協定はフツ人強硬派の怒りを呼び起こしました。彼らは共和国防衛同盟(CDR)を結成しツチへの憎悪を煽るようになります。