水俣病 最高裁判決の論理

難しい言葉が並ぶので、つい流してしまいがちだが、最高裁判決の論理立ては憶えておいたほうが良いだろうと思う。

私の感じでは

「公害は狭くとれ、被害者は広くとれ」ということではないかと思う。

言うまでもなく、水俣は現代公害闘争の原点だ。多くの人々が闘いに参加し、初めて企業の壁、政治の壁、司法の壁を打ち破った記念すべき闘いだ。

それは日本の資本主義のあり方にも大きな影響を与えた。産業の発達と市民の福祉との調和がもとめられるようになった。それをバネにして、日本の産業は真の近代化を遂げた。

それが今の日本の産業を支える大きな財産となっている。

一地方都市の問題が日本全体を揺るがせ、歴史を変える闘争となったのは、それが公害というものの典型であったからだ。そこには公害と公害闘争のすべての要素が含まれている。

論理的な積み上げとしては、原因の追及、責任の明確化、被害者の補償という段階を踏むことになるが、運動論としては病気の解明、被害者の救済、被害に対する補償、これらに関わる責任の追求という手立てを踏むことになる。

部外者にとっては、この論理の錯綜が闘争の意義をつかむことを難しくさせている。「モノトリ闘争」のように見られることさえある。

実は「救済・補償」要求は、いまなお、水俣病の原因を追及し、責任を明確にさせる闘いなのだし、むしろそちらこそが主戦場なのだ。

そういう観点から、判決を検討してみよう。

(ずいぶん長い前置きになってるのは、切り口に苦労している証拠です)

①「特措法」は「公健法」の規定を変容するものではない。

のっけから、わからない言葉の連発です。

説明すると長くなりますが、要は水俣病の診断基準は広く取りなさいということです。

②都道府県は認定にあたり“裁量”を以って判断してはならない。

これも持って回った表現ですが、要するに申請を勝手にハネてはいけません。そもそも、そういう権限はありません、ということです。

③申請者が水俣病かどうかは裁判所が個別に判断する

ここが驚きのポイントです。判断の権限を都道府県から召し上げたことになります。

それも原則的に ではなく、個別に というところまで踏み込みました。これで厚労省の策動の余地は奪われました。

④認定基準は手続き迅速化の手段にすぎない

これはいわば、ダメ押し条項とも呼ぶべきもので、認定基準を足切りに用いることを、理念まで遡って否認している。

この理念のところが、最高裁判決の論理の中核となる所で、「そもそも、責任のがれしようというあんたがたの料簡が間違ってるよ」ということだ。

(すみません。仕事の合間を見て書いているので、「である」と「ですます」がごっちゃです。短期記憶障害も来ているようです)