ルワンダ問題のおさらい

(この文章は15年も前に書いたものです。道AALAの2000年総会で報告した文章の一部です。倉庫の隅に眠っていたのを掘り出しました。その後の15年の動きについてもそのうちフォローしてみたいと思います)

 ルワンダ内戦での死者はツチ族が100万人,人口800万の約半数が国外へ脱出しました.あらたに政権を握ったルワンダ愛国戦線(RPF)は,フツ族の帰順を呼びかけ,ツチ族兵士へ民間人に対する報復を禁じました.96年 にはフツ族民間人を殺害した兵士千名以上が逮捕されています.

 しかし,ツチ族虐殺は旧軍兵士のみがおこなったわけではありません.「民 間人」の多くも「隣人殺し」に参加しています.すでに50万人以上のフツ人が,大虐殺に加担したとして逮捕されています.虐殺にかかわった人間の数は,お そらく百万を下らないでしょう.ほんとうに恐ろしいのは,殺された人の数よりも殺した側の人間の多さです.この集団的狂気は,法や政治の枠をはるかに越えたものです.従って報復と処刑との境界はかなりあいまいなものにならざるを得ません.

 ここでルワンダの歴史を簡単におさらいしておきましょう.ビクトリア湖からタンガニーカ湖にかけての大地溝地帯は,人類発祥の地として知られています.もともと「ピグミー族」として知られるトゥワ人が住んでいましたが,11世紀頃,バンツー系農耕民のフツ人がこの地に入りました.その後15世紀には,ケニアのマサヤ族と類縁のツチ族がこの地に侵入し,王国を形成します.

 1890年,ウガンダに侵入したドイツは,ウガンダ・ルワンダ・ブルンジの三国を併せドイツ領東アフリカとして支配しました.第一次大戦でのドイツの敗北に伴い,ルワンダ・ブルンジはベルギーの委任統治領となります.こうして1961年の独立までに,白人・ツチ族カイライ政権・フツ族民衆という三層構造が形成されていきました.

 独立運動を担ったのはフツ族農民でした.独立と同時にツチ族政権は倒され,フツ族のカイバンダ大統領が選出されました.この際にもフツ族による大量虐殺があり,20万人のツチ族が国外に逃れています.

  余談になりますが,この頃の日本では「アフリカ・ブーム」でした.渥美清の映画でケニアの大草原が紹介されたり,伊谷純一郎氏の「ゴリラとピグミーの森 で」が出版されたりして,当時高校生の私は人類学者にあこがれたものでした.なかでも印象に残ったのが,中公新書で出された「ルワンダ中央銀行総裁日記」で,当時の新興アフリカ諸国の背伸びした急進的な政策に何となくそぐわないものを感じていた私には,すかっとした爽快感を残す名著でした.

  この本のなかで印象的だったのは,ルワンダの民衆の温和さです.カイバンダ大統領もどこの国とも敢えてことを構えず,平和に暮らしたいと考えていました. そしてツチ族が政権を握る隣のブルンジとも仲良くやっていきたいと述べていました.(30年も前の話しなので記憶は定かではありませんが)

 ルワンダが,というよりアフリカ大陸全体が長期の景気後退に入ったのは,70年代からです.この頃から,何もかにも悪くなりました.人々の気持ちも殺伐としてきました.

 72年に隣国ブルンジで,ツチ族政権が15万人のフツ人を虐殺するという事件が起こりました.これに伴いルワンダでも両民族の対立が激化します.そして軍隊がクーデターを起こし,フツ族のハビャリマナ将軍が大統領に就任します.

 ハビャリマナは94年に飛行機事故で死亡するまで,20年余りにわたって独裁を続け,ツチ族への抑圧を強めました.国外に逃れたツチ族はルワ ンダ愛国戦線(FRP)を結成しました。この組織はフツ族の反独裁派も加わりルワンダの反政府勢力を統合したものでした.ルワンダはもともと一つの王国と して統合されており,フツ系であろうとツチ系住民であろうとルワンダ人であったのです.ここは他のアフリカ諸国の内戦とは違うところです.

 愛国戦線は90年からルワンダ領内に進攻して武装闘争を開始しますが,フツ人穏健派も独裁体制を批判し,ハビャリマナと対立するようになります.そして93年には和平が成立し,民主化へ向けて一歩を踏み出そうとしていたのです.

 その時またも,隣のブルンジで,ツチ族によるフツ族への攻撃が始まりました.ルワンダの軍内外の極右派は,これを利用して独裁政権の維持を図りました.

そして大量虐殺

 94年4月,ハビャリマナ大統領を乗せた航空機が撃墜されました.軍部はこれを愛国戦線の仕業とし,ただちに攻撃を開始しました.真相は不明ですが,当時の愛国戦線側にはハビャリマナを殺すことで得するものは何もありませんでした.

 この闘いは,あっけないものでした.戦闘開始後,まもなく政府軍は総崩れに陥り,三ヶ月後には首都を逃げ出します.愛国戦線はなおも軍を追いつめ,国外に放逐してしまいます.

 問題はその後のことです.政府軍とともになんと200万人以上のフツ族が国外に脱出したのです.一体どうしたことかと,世界が注目しました.まもなく,逃げるには逃げるなりの理由があったことがはっきりしてきました.フツ族がツチ族百万人を虐殺していたのです.

 国際対応もおかしなものでした.ルワンダの国家再建に協力し,難民の帰還に努力すべきなのに,ひたすら難民キャンプの惨状ばかりを報道し,そこに援助を集中させたのです.

 カンボジアの時もそうでしたが,国外に亡命した人たちの救援に多くの国際団体が参加しました.援助総額は10億ドルを越えるといいます.しかし,結果としてこの「人道支援」はフツ族の旧軍兵士を力づけ,ふたたび内戦を始める手助けとなったことも間違いありません.

 もし人道支援をおこなうとすれば,難民キャンプよりはルワンダ本国の受け入れ体制強化に重点を置くべきではなかったでしょうか?

 難民キャンプへの援助が,結果として内戦を長引かせ,さらに犠牲者を増やしたのは,かつてのポルポトの教訓が生かされていないと言えます.

ブルンジの内戦

 ルワンダと瓜二つの人口構成で,なぜ別の国になったのかは分かりませんが,フツとツチの対立は,ルワンダよりはるかに強烈で,支配者であるツチの抑圧的姿勢も強烈です.

 62年の独立後わずか4年で、ブルンジは早くも軍事独裁政権に移行しました.72年にはフツ族が反乱を起こし,ツチ人1万人を殺害しました.ツチ族政権は,その報復として10万人虐殺で応えました.

 87年,ようやく民族和解を目指す政権が成立し,この政権の下に初の大統領選挙が行われました.ところが,選挙を実施したツチ族中心の政権が敗れてしまいます.代わりに大統領に就任したのはフツ族のヌダダイエでした.

 これを不服とするツチ族の一派は,ただちにクーデターを敢行.ヌダダイエを処刑してしまいます.その後はおさだまりの内戦です.この内戦でさらに25万人の人が殺されました.

 1996年,軍部はブヨヤをふたたび大統領に指名.和平への道を探ろうとしています.しかしツチ族が政権に固執し,多数派のフツ族を武力により支配する姿勢を続ける限り,真の和平への道は遠いといわざるを得ないでしょう.


最近ではルワンダの大量虐殺の陰で、フランスの果たした役割が明らかになっています。この頃私の感じた疑問がかなり解明されてきています。

今回、フランス軍のマリ侵攻を知ったとき、また第二のルアンダが起きるのではないかと心配しました。

ルワンダの歴史は、以下のページで包括的に述べてあります。

ルワンダ史 大虐殺を乗り越えて  大虐殺を挟んだルワンダの歴史。