自転車の哲学と均衡経済

ここまで、長々と自転車の原理的仕掛けについて考察してきたのは、均衡論争を見ていく上での自分の視座を整理しておきたかったからである。

社会主義というのはスミス以来の労働価値説を根拠にしている。これに対して「新古典主義」は、効用があれば価格は決まるという主張になる。

そして価値の根源についての議論はあえて避けて、それを議論しなくても効用だけで経済は十分説明できるとして、その限りにおいて精緻な議論を展開している。

ワルラスは、各市場ごとの均衡でなく、経済全体に均衡が成立しうると説き、それを数学的に証明してみせた。

これに社会主義者(の一部)が飛びついて、市場機能の制限と政府の介入、さらには経済の計画化という青写真を描いた。

ワルラス自身も、「純粋経済学」は、正義を原理とする社会経済学と効用を原理とする応用経済学の基礎理論にすぎないと考えていた。ワルラスは、「純粋経済学」を根拠として、土地国有化論と労賃免税のシステムを主張し、経済における自由競争の組織化、国家の市場への介入を提言した(御崎加代子さんによる)

社会民主党の思惑

社会民主党は、「自由放任政策が独占資本主義を産み、帝国主義戦争を招いた。計画経済で市場の無政府性を統制しなければならない」と考えた。

だがそれは実現可能だろうか、実現できたとして存続可能だろうか。

そのとき新古典主義の主流から、ワルラスの均衡理論が浮かび上がってきた。これを使わない手はない、と飛びついた。

しかし飛びつき方が安易だった。

率直にいって、労働の現場での組織化と自主管理を伴わない国家主導の経済システムは社会主義とは異なる。せいぜいが「正義を原理とする社会経済学」でしかないのだが、その問題はとりあえず置いておこう。

資本主義には自己調整力がないから社会主義が必要だと言いながら、その社会主義が存続可能であることを証明するために、資本主義の均衡論をはめ込むというのは、どう考えてもご都合主義だ。

ミーゼスの主張は「市場=ハンドル」論

ミーゼスの主張は、社会主義への激しい嫌悪感を除けば、至極まっとうだと思う。ただ、言い過ぎたために揚げ足を取られた格好だ。

どこが言い過ぎかといえば、一般均衡モデルの“論理的”否定である。おそらく一般均衡モデルは複雑系の均衡を扱っており、コンドラチェフ・レベルのかなり長い周期で成立しうる均衡だと思う。

これだと反論する側は、花見劫みたいな気楽な気分である。「総需要と総供給が究極的に一致することは、資本主義とか社会主義とかの社会システムのいかんを問わない」、ということを証明しさえすればよいのだから。

ミーゼスの批判の本来の趣旨は、「生産手段の社会化」はできないということである。

「生産手段の社会化」ということは生産財の売買の廃止や、市場からの排除につながる。

市場がなくなれば生産財の価格が存在しなくなる。価格という客観的交換価値が存在しなければ,複雑な生産体系における合理的資源配分や技術選択はできなくなる。

つまり市場というのはハンドルであり、ハンドルなくして経済運営はできないということだ。

それは正しいのだが、そのことと同時に、「タイムスパンを長めにとった時には諸市場のトータルとしての均衡は成り立ちうるという、新古典主義モデルとは矛盾しない」と一言言うべきだったのである

なぜなら、自転車というのはハンドルがなくても立位保持可能な乗り物だからである。自転車はやや曲乗りに属するが、手放し運転も可能だし、一輪車のような使い方も可能なのである。

首を切り落としたカエルがジャンプ可能なように、市場のない経済も一般均衡を実現することは可能である。