自転車というのは不思議な乗り物で、理屈からすると立ってられないはずなのに立っている。
もっと不思議なのは立ち続けていられるということである。
自転車に乗れる人には別に不思議でもないだろうが、乗れない人には奇跡だ。自然科学的には許してはいけない事象だ。
自転車に乗れない人にとっても、歩くことは別になんでもないことだろうが、考えてみれば、歩く瞬間には片足だけで平衡をとっている。だから歩けるのだ。赤ん坊は歩けないから這っている。
自転車は実は二点で立っているのではない。三点目があるから立っているのだ。ただし第三のポイントには時差がある。
「あっ、倒れそう!」という時に、倒れそうな方向にかじを切って、三角錐の頂点が三角形の中に収まりそうな三角形を想定して、その第三のポイントに前輪を進める。そうすると倒れないで済むことになる。

前輪の今のポイント(A1)と、0.5秒後のポイント(A2)がダブルでカウントされて、それに後輪のポイント(P)と合わせて、めでたく三点となるから立てるのだ。

A2がA1とPに対してどういう相対位置関係になるのかは、諸般の事項によるが、肝腎なことはA1とA2に有意の相違がなければならないということだ。

つまり、三次元の平面上では成立し得ない平衡が、時間軸を導入することで成り立つということになる。

平衡というのは、一見静止を思わせるイメージだが、実はそれは変化の中にのみ存在し、変化の一形態であり、「変化無くして平衡を語れず」ということになる。


ところでカーブを曲がる自転車の絵で、外側に遠心力が働き、内側に重力が働いて釣り合いがとれているから、自転車は傾いても転ばないのだ、みたいな説明が書いてあるが、あれでは不十分だと思う。

遠心力がはたらくのは、まっすぐ進もうという駆動力が働いているからであり、駆動力が働いているにもかかわらず、カーブでスピードが落ちてしまった分が慣性エネルギーに転換するからである。
つまり平衡をもたらしているのは何よりも前に進もうとする駆動力であり、それがもたらす質量を持つ物体の位置の変化であり、それを時間で微分した「速度」である。

静的平衡というのもたしかに存在するのであるが、それは相対的なものである。
ひとつは時間軸が我々の感覚からして著しく長いためか、あるいは静的に見えても、水面下で絶えず微調整を繰り返しているために、あたかも止まっているように見えるかの何れかである。
それは死んだ静止ではなく、生きた静止、「動的静止」なのだ。そこにも駆動力が働いていることを看過してはならない。