第3章 試行錯誤法による一般均衡論的市場の模写

テイラーとランゲの機械的市場像と社会主義経済像

 

第1節 テイラーの試行錯誤法の意義と可能性

1920年代後半に、もはや社会主義ロシアの村立が揺るぎないものとなると、論争は社会主義一般ではなくソ連型社会主義を念頭に置きながら展開されることになる。

1930年代なかばに、英米学派がこの論争に関わるようになると、議論の性格やテーマもさらにニュアンスが変わってくる。

36年にランゲは論文「社会主義経済理論について」を発表した。この論文の目的は、ミーゼスおよびハイエクの「社会主義経済における合理的経済計算は不可能である」という主張に反駁することであった。

とはいうものの、ミーぜスの論理的不可能説はパレートやパローネらローザンヌ学派がすでにその論理的可能性を証明していた。そのため反論はハイエクの実行不可能説に対して集中した。

ランゲは、1929年のテイラーが“The Guidance of Production in aSocialist State”で提唱した理論を用いている。それは「試行錯誤の手続き」と呼ばれるものである。(おそらく後のサイバネティクスに相当する手法であろう)

それによって、「社会主義社会における合理的経済計算」(ハイエクも論理的な存立可能性は認めていた)が,机上の空論ではないことを示した。そして実際に運営することも可能であることを明示した

 

まず、テイラーの「試行錯誤の手続き」から見ていく。これは「成功するまで一連の仮説的解を試行的に解いていくという帰納的方法」だといわれる。以下西部さんの説明を聞く。

①試行錯誤の方法は、各本源財(土地、原料、労働など)の生産過程における有効的重要度を確定するための方法である。

②まずは「要素評価表」を経験によって作成する。この表に基づき消費財の生産に用いられた本源財の合計額を算出する。

③この「資源費用」を暫定価格として、需要と供給に合わせて価格を調整し、逐次改訂していく。

西部さんによれば、テイラーの方法の特徴は,「模索の過程が本源財価格のみを対象としており,生産費用原理(フルコスト原理)による価格形成を応用する点にある」そうだがよく分からん。

 

第2節 ランゲの試行錯誤法による市場の模写

ミーゼスやハイエクの考えの根っこには、「価格なくして価値なし」というドグマがあるように見える。そして「価値に価格を与えるのは市場のみ」という思い込みがあるようだ。ただそれを理論的には定義できないので、実現不可能性というところに逃げ込もうとする。

そこで、ランゲは,まず価格の定義を明らかにすることから議論をはじめる。

価格には、二つの意味がある。通常の意味における市場価格は、市場での二つの財の交換比率という意味だ。そしてより広い意味では、 「代替物が提供される条件」ということである。

資源配分の問題を解決するのに不可欠なのは、広義の一般的「価格」のみである。(消費者の“好み”は反映されない) 前者の狭義の「価格」は,後者の広義の「価格」の特殊ケースにすぎない。

ハイエクの言う「経済問題」とは、代替物間の選択の問題であるが、その解決には三つのデータが必要である。

①選択行為を誘導する選好表

②「代替物が提供される条件」に関するデータ

③資源の利用可能量に関するデータ

逆に言えば、これら3つのデータがあたえられると,選択の問題は解決できることになる。

この内、①と③に関しては、社会主義経済においても,すくなくとも資本主義社会と同程度に与えられていると考えられる。したがって残された問題は、②「代替物が提供される条件」に関するデータが入手可能かどうかである。

ミーゼスは②のデータの入手可能性を“論理的”に否定した。

資本財が交換される市場がない社会主義社会においては,交換比率としての資本財価格は存在しない。よって資本財に関する「代替物の指標」も存在しない、というのがミーゼスの主張である。

しかしこれを裏返すと、生産手段の私的所有なくしては代替物の指標が存在しないということになるから、それは特殊な制度的枠組にのみ適用可能ということになる。これは経済理論の根本原理が一般的妥当性を持つというミーゼスの主張と矛盾する。(荒っぽく言えば、資本主義体制のもとでしか、生産財の価格は存在しないという主張だ)

基本的に①と③のデータが与えられれば、②の「代替物が提供される条件」は、ある財を他の財へ変換する技術的可能性,すなわち「生産関数」により決定されることになるので、少なくとも“論理的”には算出可能である。(何やらよう分からんが…)

これでミーゼスを撃破したランゲは、ハイエクの「第二次防衛線に撤退した」より一層洗練された議論を批判の対象とすることになる。

ハイエクは社会主義経済における資源の合理的配分の理論的可能性を否定せず、問題の満足すべき実際的可能性を疑うという手法をとっている。

以下は試行錯誤法についての詳しい解説が載っているが、ほとんど理解不能。よって飛ばす。

第2節の結論部分

社会主義経済では,中央当局が,市場の諸機能を遂行していることになる。

すなわち、生産要素の結合,各産業における産出量、資源配分の決定機能である。

また計算上の価格のパラメータ機能が働くためのルールを決定する。

中央当局は経済運営において完全なリストを手に入れる必要はなく、またハイエクやロピンズが雷うように数十万あるいは数否万の連立方程式を解く必要もない。

試行錯誤法により市場の模索プロセスを模倣すれば,市場機能を計画で置き換えることは可能であり十分機能しうる。

 

第3節 ランゲの社会主義経済像

市場においては,価格調整者としてのせり人が,需要と供給のギャップを埋めるべく価格を動かしている。

ランゲは,競争的市場を次のように定義している。

①個別主体の数が非常に大きく,だれも価格に対し目に見えるような影響を与えることができない。このような場合は価格は各個人の行動から独立な不変のパラメータとなる。

②市場は出入り自由である。

このような、ワルラス的な「よく組織された」市場を想定することが、現実的に妥当かどうかがまず問われる。

ランゲは以下のように結論する。

①資本主義経済において、ワルラス的な競争市場が存在していること、

②そこにおいて合理的な資源配分が行われている

という二つの条件が仮定できるのなら、

社会主義経済においてもそれと同様のメカニズムを科用することができるはずである。

西部さんは、これは極めて巧妙な説明だと言っている。

存立や存続の可能性の問題をすべて資本主義市場の側に押し付け、みずから応えることを回避している。「あんたの人生がうまくやって行けてるんなら、俺だってうまくやって行けてもいいんじゃないか」という論理だ。

逆に言えば、「あんたの人生がうまくばかりは行かない程度に、俺の人生もそれなりの浮き沈みってものはあるさ」という開き直りでもある。

ランゲは、純粋な競争市場経済という概念的構築物が. 「理想的な社会主義社会」を描写していると論じている。

「むしろ一般均衡論の理念型は、社会主義社会においてこそ実現可能であると言わんばかりだ」と西部さんは指摘している。

このあと社会主義における分配の問題に移っていくが、論争の主題とはややはなれるので(本当は、少ししんどくなってきたので)省略する。

 

第4節 ランゲの道具的で機械的な市場像

この節は、ある意味で論争の後日談となるのかもしれない。

ランゲは、一種のサイバネティクスの方法で計画の適正化と、擬似市場の構築が可能と考えていたが、それはコンピュータ技術の発展で裏書された。

1967年の論文「コンピュータと市場」でランゲはこう語っている。

このような試行錯誤のプロセスはもはや必要ではなくなった。コンピュータを用いるシミュレーションにより直接的に解を得ることすら可能である。

論文を今書き直すならば,私の仕事はより容易になるだろう。私のハイエクやロピンズに対する答えは, 「それで何が問題か?」ということになるだろう。

それが実は大問題なのだ。ランゲの言うとおりの状況が目前に出現したにもかかわらず、社会主義経済の実態は悪くなる一方だ。

実際にはハイエクの指摘した通りの事実が次々と明らかになっていく。そして20年余り後に、音を立てて崩壊してしまうことになる。

この点について西田さんは、こう見ている。

ランゲは,市場を経済計算を解くサーボ・メカニズムと捉えて,市場とコンピュータの機能を類似的で代替可能なものとみなしている。

ランゲは,市場が社会制度であり社会的秩序でもあることの意味を,それほど探求しなかった。このような道具的で,機械的な市場像こそが問題なのである。

後年それを指摘したのは、ドッブやスウイージーであった。

経済計画の問題を技術工学的な問題へと還元してしまう考えは,ランゲだけでなく,市場を機械論的に把握する一般均衡論に顕著にみられる考え方である。

むしろランゲが批判したハイエクの方が、市場経済の社会的制度としての意味をより深く探求した。

ハイエクは,社会主義経済計算論争を経ることで,自分らの市場像をいわば知識の分業に基づく「非中心的で,分散的な情報システム」 として認識していくことになる。

ランゲ論文は,ミーゼスの問題設定に対する結論的解決を与えた。

しかし本論争の全体をミーゼスの主論にとらわれずより広く眺めてみると,多様な問題設定がさまざまな方向へと発展する、一つの分岐点になっていることがわかる。

 

とりあえず、ノート作りはここでいったん中止する。

なおこのあと、論文は第4章 ハイエク論、第5章 ポランニー論、第6章 ドップ、スウィージー、シュンペーター論と続いていくので、いずれ手は着けなければならないだろう。