第2章社会主義計画経済の論理的可能性から実行可能性へ

~ハイエクの「経済的」問題と人間知性の限界

 

第1節 パローネの数学的方法~集産主義的均衡解の存在

1908年,イタリアの経済学者パローネは、集産主義的経済が存在していることを前提に,社会主義社会に対する一般均衡価格の適用可能性を明かにしていた。

彼は,“市場における需給均衡に関する連立方程式系”を解けば均衡価格が得られるとし、それを数学的に証明した。用いた連立方程式は、数理学派(ローザンヌ学派)のワルラスやパレートの一般均衡論に基づくものであった。

そしてこの均衡価格に基づく経済計算により効率的な資源配分と所得分配を達成できることも示した。同時に「効用」などのウィーン学派の概念を用いる必要がないことを示した。

彼は、「需要,供給,生産費という古くて単純な概念だけで、経済的諸量の最も重要な相互関係を方程式体系の中に構成したり,社会福祉に関係する様々な動態的問題を扱うことが、十分に可能である」と述べている。

しかしパローネは言い過ぎている。

西部さんによれば、「.パローネの証明は,いわば集産主義的均衡解の存在証明に過ぎず,その達成のメカニズムは不聞に付されている」のである。この“言い過ぎ”にカチンと来たのが、ハイエクがこの論争に飛び込むきっかけになったようである。

 

第2節 ハイエクの「経済的」問題

ハイエクは, 1935年の編著「集産主義経済計画」で,それまでの議論に整理,検討を加えた。そして社会主義経済の実際の運営に伴う問題をいろいろな角度から追求した。

そして「問題の性質と歴史」と題する冒頭論文では自説を包括的に展開している。

ハイエクはまず問題を二点に分ける。一つは経済的問題であり、もうひとつは技術的問題である。しかしこれら二つの問題の区別は,必ずしも明確ではない。

 

第3節 計画経済の実行不可能性 人間知性の限界

論争開始後15年を経て、テイラー,ローパー,デイキンソンらが、商品の価値と生産量は経済学の理論用具により決定することができることを示した。ただしすべての関連データに関する“完全知識”を想定することによってではあるが。

ハイエクは、この頃すでにかなりイデオロギッシュになっている。「すべての関連データに関する完全知識を持つことは、人間にとって実行不可能である」として、この主張を拒否した。これは100%でなければゼロだというに等しい強弁だ。さらに「消費者の選択の自由と職業の選択の自由が保持されないような、全経済活動についての中央指令体制は,現代の生活の複雑な諸条件の下では非合理である」と強調している。

一方で、「最近の試案の大多数は代替的な社会主義体制の建設によってこの困難を回避しようとするものであり,伝統的な社会主義のもつ欠点を免れるものと思われる」として、部分的に計画経済に関する新しい流れを受容する方向に傾いている。

そろそろ論争としては潮時だ。

 

第4節 ハイエクのアンピパレンス 不明確な市場理論

ハイエクの論点は大きく次の三つに集約される。

第一に,社会主義中央計画経済は、単一の目的をいかに効率的に達成するかという、設計主義的な見方である。それは技術的問題に矮小化しており、「経済的問題」を見ていない。

第二に,テイラー,デイキンソンらの「数学的解決」に関しては,そこに論理的矛盾がないことを承認する。しかし、価格決定のために必要な情報の収集,およびその計算は莫大な仕事量であり,人間にとって実行不可能である。

第三に,市場経済の競争を部分的に導入しても,最終的な決定基準が定まらないがゆえに,危険な事業の回避や官僚制の問題を生むであろう。「擬似競争的解決」は真の解決とは成り得ない。

第一の主張については、ハイエクの言う経済的問題、“希少な資源の使用に際して異なる目的が競合するもとでの経済的決定”が、それほど質的に高い問題とはいえない。“そういう問題もあるよね”というレベルの話である。

第二の主張については、“経済学者”としては敗北宣言でしかない。「現実にはなかなか難しいんじゃない?」 というんじゃ反論にもなっていない。引かれ者の小唄に過ぎない。

第三の主張については、のちにランゲやデイキンソンが試行錯誤法(フィードバック回路の形成)を用いることで存立可能であることを立証することになる。

論理の尽きるところに情緒的言動が接木される。ハイエクは社会主義経済における自由の抑圧と独裁化という論点をますます前面に押し出すようになる。そして「隷従への道」では、社会主義社会を農奴制への回帰と批判するようになる。それはたしかにスターリニズム批判としてはあたっているのであるが、社会主義や計画経済への批判として用いるのはお門違いである。