このノートは、北大経済学部教授の西部忠さんの論文の抜き書きです。
論文の題名は

社会主義経済計算論争の市場像: 経済の調整と組織化

で、北大のサイトにPDFファイルがあります。西部さんの博士号論文のようです。

一冊の本になるくらいの長大な論文で、まだ半分までしか読めていません。

見出しはすべて原著のものです。私の感想は、小文字で途中にはさんでいます。

はじめに ヴィジョンとしての市場像

社会主義経済計算論争は,オーストリア学派,一般均衡論派,マルクス学派が絡む論争で、経済理論のいくつかの理論的パラダイムが準備された一つの分岐点であった。

論争に参加した主な論者: ミーゼス,ハイエク,パローネ,テイラー,ランゲ,カール・ボランニー, ドッブ,スウイージー,シュンベーターなど

本論争は現代においても議論される理論的な問題領域をふくみ、経済学の今後の課題を提示している。

主要な論点は、①中央集権的社会主義社会における合理的な資源配分の問題、②社会主義の存立可能性。

当初は付随的に提起された論題: 一般均衡論,経済計算の合理性,労働価値説の意義,価値の価格への転形論,経済における情報とインセンテイヴなど。

これらの論争を「市場」ヴィジョンをキーワードにあとづけていく。

 

第1章社会主義計画経済における合理的計算の論理的不可能性

論争の序曲,ミーゼスの主論と傍系論

 

第1節 「社会主義経済計算論争」の意味と範囲

「社会主義経済計算論争」と一般に呼んでいるのは,ミーゼスの1920年の論文「社会主義共同体における経済計算」である。そのタイトルの「経済計算」 (Wi「tscha「ts「echnung)に由来する。

ミーゼス論文自体が論争の書であるが、噛みあう形での最初の論争は、22年から24年にかけてのミーゼスとカール・ポランニーの論争である。ここから1939年のランゲ論文までを“論争史”と括って良いであろう。

1939年のランゲ論文をもって論争は終了するが、ランゲ論文に触発されてハイエク, ドッブ,スウイージー,シュンベーターらが論議を継続しており、ここまでをふくむ場合もある。

社会主義者は、一般均衡論的な市場経済の合理性を前提とし,そのもとに社会主義経済の可能性と合理性を分析していた。ミーゼスは社会主義経済(計画経済のこと)と一般均衡論(ローザンヌ学派)を串刺しにして批判しているので、議論がわかりにくくなっている。西部さんは「社会主義経済の論理的整合性(consistency) と存立可能性(「easibility) に関する論争」と呼んでいる。

のちにハイエクは、一般均衡論における市場像自身についての検討に力点を置くことになる。

 

第2節 マルクスの社会主義像

ミーゼスやハイエクが批判の対象とした社会主義像、当時における一般的な社会主義像はどのようなものであったか

 

 

第3節 ミーゼスの論理的不可能説

オランダの経済学者ピアソンが1902年の論文「社会主義社会における価値問題」を発表。ピアソンは,社会主義社会においても純所得を決定するための「価値の問題」は存続すると指摘した。

第一次大戦後、オーストリアの社会主義者ノイラートやパウエルは,「社会主義社会では,単一で共通の価値単位が存在しなくとも,すべての計算は実物で行い得る」と主張した。ミーゼスはこれを厳しく批判した。

ミーゼスの議論の大筋は次のようにまとめられる。

①実物や労働量は,経済活動を合理的に行う上での計算単位になりえない。

②貨幣により表現される価値のみが唯一の客観的な単位である。

③生産物の価格形成が競争的市場でなされるときのみ,諸資源の合理的使用が可能である

④社会主義社会においては,生産物や生産財の競争的市場が存在しない。したがってこれらの価値は決定できない。

⑤価値が決定できなければ、合理的経済計算は不可能である。

 

ミーゼスの議論をやや詳しく見てみよう.

彼の議論は,大きく分けて次の3つの論点から構成されている。

第一節 「社会主義共同体における消費財の分配」

生産手設が公有化されれば生産財の交換される市場がなく, したがって生産財の価格が存在しなくなる。

第二節 「経済計算の本質」

社会的分業が発達した社会においては,複雑な生産体系になるため、客観的交換価値が存在しなければ,合理的資源配分や技術選択は困難である。

第三節「社会主義共同体における経済計算」

静態的経済では経済計算は必要ないが,すべての経済的与件が変化する動態的経済において価格の評価システムに基づく経済計算が不可欠である。

 

第4節 ミーゼスの主論と傍系論

市場経済の重要な側面を指摘する点では、ミーゼスの意見は積極的だが、それを社会主義計算の不可能性の論拠にするのは間違っている。市場には否定的な側面もあることも否定出来ないからである。レッセ・フェールで市場任せにしてきた結果が第一次世界大戦にまで行き着いたわけだから、「市場バンザイ論」では済まないのである。

西部さんは、「客観的交換価値としての均衡価格が社会主義経済へも適用可能であることが証明されればこの論理の筋は論破される」と述べている。