スターリンとヒットラーが流血の20世紀を作り上げた二大巨悪だということは、いまや我々の目にも明らかになってきた。
そして、ヒットラーを敵とし、その背後にいる世界独占資本と帝国主義を敵とする闘いのなかで、結果的に我々はもう一人の巨悪を支持するという過ちを犯してきた。そのことも明確になってきた。
この巨大な過ちにもかかわらず、我々は相対的に正しかったと言わざるをえないアイロニーに直面している。
歴史の中の立ち位置に基本的なブレはなかった。さまざまな困難があったとしても、人民の立場(Pro Popolo)に立って帝国主義に立ち向かう(Anti Imprialism)という道を選んだことに間違いはない。
しかし特殊状況のなかで、世紀の巨悪を自らの指導者に据えたという“あほらしさ”は、ほかの全場面での頑張りを持ってしても合理化はできない。「アホだけど頑張った」というのと、「頑張ったけどアホだった」ということの違いをあげつらうのは、それ自体がアホらしい行為である。

少し内向きの議論になるが、我々は誠実な批判者に対して誠実に対応してきたとはいえない。スターリン信仰の残滓を多少なりとも引きずりながら、我々は歩んできた。

それは原発信仰とも似ている。
原子力は未来のエネルギーだろうか? 違う!
原発にもいいところはあるだろうか? ない!
原子力の平和的利用は推進すべきだろうか? だめ!

これは東日本大震災から2年で、急速に作り上げられた固められた私たちの信念である。