「赤いウィーン」とはなんとも魅力的なネーミングだ。

ウィキペディアによれば、「オーストリア社会民主党がウィーン市議会で初めて与党となり、民主的に統治を行った、1918年から1934年までの同市のニックネーム」だそうだ。きっと最初は右翼が当てこすりでつけた名前だろう。

そこはウィーン学派の活躍の舞台だった。今や世界に名を轟かせている巨星たちが、実物大で活動し議論し、理論を構築していった舞台だ。

哲学と経済学と心理学が奇妙に混じり合い、互いに刺激しあっていた。しかし容れ物としてはあまりに小さかったから、やがてそこから世界に飛び出していった。


1914年 第一次世界大戦が始まる。社会民主党が事実所の分裂。レンナー、V.アドラーら主流派は戦争政策を支持。「城内平和」路線と呼ばれる。少数派(F・アドラーら)は「カール・マルクス協会」を結成。無賠償・無併合の即時停戦を主張する。

1817年 ロシア革命。

1918年

11.12 第一次世界大戦が終了。オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、第一共和国が成立する。

ロシア占領地域からの難民が大量に流入。中産階級は没落し貧困層に転落した。食糧不足、住宅不足が深刻化し、伝染病が蔓延する。

12月 社会民主党とキリスト教社会党の連合を中心とするカール・レンナー政権が政権を担当する。社会民主党は左右両派が合同。

12月 「労働評議会」と呼ばれる労働者による公的な合議機関が発足、8時間労働制や雇用保険制度が導入される。

1918年 オーストリアにもボリシェビキ型の共産党が結成される。その後弱小政党にとどまる。

1919年

2月 総選挙が施行される。社会民主党は全投票数の40.8%を獲得して69議席を占め、この年の党員数は332,000人に達する。

5.04 ウィーンの市議会議員選挙が行われ、社会民主党が絶対多数を獲得する。社会民主党党首のヤーコプ・ロイマンが市長に就任。

1920年

保守のキリスト教社会党の右傾化が進む。連合政権は崩壊し、社会民主党は野党に転落。ウィーンだけが残された牙城となる。

1920年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。レーニンとボリシェヴィキを「専制的社会主義」として批判する。

バウアーは応召しロシア戦線で捕虜となった。この間にロシア革命の実態を目撃した。批判を加えられたレーニンはバウアーを「博識なばか者」と酷評した。
しかし、大テロル後の1937年にもなお、バウアーはこう語った。「われわれは、ソ連邦における社会主義を信ずる。現にあるソ連邦ではなく、未来のソ連邦を 信ずる」

1921年

オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(いわゆる「第二半インターナショナル」)が設立される。第二インターとコミンテルンの分裂を調停し、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。レーニンはこれを激しく批判。

1923年

保守派が「護国団」(Heimwehr)と呼ばれる準軍事組織を組織。社会民主党はこれに対抗して「祖国防衛同盟」(Schutzbund)を発足させた。

1924年

ウィーンに住む画学生ヒトラー、「我が闘争」を発表。多民族都市ウィーンに憎悪心をいだき、ドイツ民族至上主義と反ユダヤ主義を煽る。

1925年

ウィーン市庁、カール・マルクス・ホーフなど6万以上もの大規模な近代的アパート群の建設に乗り出す。公共住宅の建設費は、独自の州法で定められた住宅税や奢侈税により賄われ、賃貸料は勤労者世帯の収入の4%程度に抑えられる。

市議会有力者は、「我々が若者向けの施設に投資することで、刑務所に金を使わなくて済むだろう。妊婦や新生児のケアに投資することで、精神病院に金を使わなくて済むだろう」と発言している。

1926年

クーデンホーフ=カレルギーの提唱で、ウィーンで第1回パン・ヨーロッパ会議がひらかれる。共通通貨、均等関税、水路の共用、軍事と外交政策の統一を基礎とするヨーロッパの連帯をうたう。

社会民主党、リンツ綱領を採択。「改良主義とボリシェヴィズムの間の第三の道」を定式化。民主政に依拠して則法的に政権を獲得する路線を打ち出す。 

1926年 バウアー、『社会民主主義的農業政策』を発表。ボリシェヴィキの農業政策を酷評、「農民の収奪を考えるのは愚か者だけだ」と主張する。

1927年

初頭 右翼メンバーが、対抗デモのに参加した退役軍人と8歳の少年とを射殺。

7月 射殺犯3人に無罪判決。これに抗議するデモが各地に波及。

7月 「7月15日事件」が発生。ウィーンで労働者デモ隊が警察を襲撃。89人が死亡。その後の弾圧により社会民主党の勢力は後退を余儀なくされる。

1930年

世界大恐慌がウィーンにも波及。

1933年

3月 ドルフース首相(キリスト教社会党)、議会の混乱を理由に議会の機能を停止。戒厳令の公布、共産党の禁止など独裁権力をふるうようになる。

ドルフースはファシストというよりオプス・デイ(キリスト教原理派)に近い。しかしナチスのオーストリア併合に抵抗しなかった、という点ではファシストと同列である。

9月 社会民主党、党が禁止されるなら武力蜂起すると決議。

1934年

2月 「2月12日内乱」が発生。社会民主党および「共和国防衛同盟」が、リンツ、ウィーン、グラーツなどで蜂起する。4日後に敗北。

2月 ドルフース政権と「祖国戦線」の独裁に移行。社会民主党は解散処分を受け、ウィーンの社会民主党市政も終焉した。


あまりインターネットに情報がなく、とりあえずはウィキペディアに若干を付け加えた程度の表になってしまった。

たかだか10年の経験であり、美濃部都政みたいなものだが、両大戦間の出来事であったということ、ナチスの成立と勝利に密接に関わっていたという点では、歴史的意義ははるかに大きい。

この経過を見ると、反動的支配層が革新自治体や労働運動を潰すのにナチスを手先として利用しようとする狙いが、かなり透けて見えてくる。

革新都政を倒すのに、創価学会・公明党が利用されたのとかなり類似した光景だ。ナチスのほうがはるかに凶暴ではあるが。

もう一つは、マルクスの名が生きている運動だということ。社会民主党左派がイニシアチブを握っていたという意味では、レーニン・スターリン的な“共産主義”ではなく、ある意味“正統マルクス主義”の実験だったということにある。

率直にいえば、その経験はロシア革命的な道筋よりははるかに貴重だと思う。

社会主義計算論争も、当初はソ連型社会主義を念頭に置いていたわけではなく、オーストリア型社会主義の方向性を問う論争であったと思われる。(この頃のハイエクは、紋切り型でなく相当丁寧に議論を展開している)

ただ、大恐慌後はソ連経済をターゲットにした、よりイデオロギッシュな論争に変わっていく。それとともに、対立も形而上学的な、無内容なものになっていく。