卒業式で教師の口パクを監視して、処分した校長が大阪市の教育長になったそうだ。世も末である。

口パクそのものがなにか“隠れキリシタン”風で哀れを催すが、それを探し出して摘発するのは、なにか人間性の中核が欠落していると考えざるをえない。

ガリレオは宗教裁判にかけられたとき、小声で「それでも地球は回っている」とつぶやいたそうだが、それを「ガリレオがこうつぶやいていました」とご注進するような輩である。

「どう育ってもいいが、こういう恥ずかしい人間にだけはなるな!」という人物を教育長にすえるのは、人をおちょくっているとしか思えない。


例えば、何かの式典でイギリス国歌が流れたとする。

私なら当然起立し、国歌に対し敬意は払う。

その歌詞が「神よ我らが女王を守り給え」であってもだ。


「君が代」には3つほど問題がある。

ひとつは、いまは「民が世」であることだ。終戦をもって「君が代」は終わった。憲法にそう規定されている。この歌詞は憲法の精神から見て間違っている。

ひとつは、戦前・戦中に皇国思想の象徴として用いられたことだ。そして「君が代」を守るために過去にあまりにも多くの血が流されていることだ。この曲に反感を感じる日本人は決して少なくはない。そしてその反感には正当な理由がある。

そしてもうひとつは、この曲が国歌として法的に位置づけられては来なかったことだ。99年に国旗及び国歌に関する法律で制定されるまでは、国歌ではなく、「国民歌」でしかなかった。


しかし、国歌となった以上は然るべき敬意を払うべき「義務」は生じる。それはあくまでも外形的なものである。

はじめに、右翼もふくめ全員で確認しておくべき、議論の前提がある。それは日本は自由な国家であるということだ。

良心の自由が最大限に保障され、表現の自由が尊重される国であるがゆえに、我々は日本という国に誇りを持っているのだ。

1.良心の自由との関連

「君が代」に反対する人が、内面的にそれを軽蔑したり、嫌悪感を持つことは、「良心の自由」として最大限に保障されなければならない。

組合など左翼系が反対の主力になっているために、「君が代反対=アカ」という図式が広がっているが、じつは君が代に対する拒否意識はむしろ信仰者に強い。

それを左翼が代弁していると見るべきであろう。

2.表現の自由との関連

ついで「表現の自由」との絡みが問題になる。

一般的には「良心の自由」は「表現の自由」無くしては表明できないわけだから、「君が代」に対する意見表明は、決して抑圧されてはならない。

ネット右翼が、「君が代に反対する人は非国民であり、日本人ではない」とか、「そういう連中には教員となる資格はない」というが、これは暴論である。

いまだに福島では15万もの人が家に帰れないでいるのに、「多少の放射能は体にいい」とか「直ちに健康に影響をあたえるものではない」などとノタもう人物(ネット右翼のお気に入り)がいるが、それも「言論の自由」なのである。

慎み深く、反対の意を表する限りにおいては、「君が代」に対してどのような行動を示そうとまったく自由である。口パクなどはまったく問題にならないし、問題にするほうが問題である。

おそらく問題になるのは式次第を妨害したり、国歌を冒涜するような振る舞いをとることであろう。歌わない、起立しないというのも、多少は目障りではあろうが、表現の自由の範囲内にとどまっているものと判断される。

3.職務との関連

最後に、「職務」との関連であるが、公務員である以上、国歌に対する礼儀は法令の順守に属する職務として義務付けられるであろう。

ただ外形的には、イギリス国歌に対する礼儀と同じレベルまでであろう。起立し、沈黙する。

これ以上は公務員といえども、「良心の自由」を越えて行動を強制される必要はない。憲法は公務員法にも「国歌に関する法律」にも優先する。

もし良心の自由を侵害する形で職務命令が発せられれば、今度は職務命令の方に違憲の疑いが濃厚となるだろう。

(教育現場では、学習指導要領という「告示」形式で定められており、法的拘束力はない。このため自治体条例で行政的に縛りをかけようとする動きが活発化しているようだ)