24日の赤旗に、中村梅之助「前進座80年」へのジェームス三木の批評が掲載されている。
見事な名文だ。絶対に赤旗でしか読めない宝物のような文章。これで新聞代1ヶ月分の価値はある。
どうしようか、いっそ全文コピーしようか。
最後の梅之助の歌が実に効果的に配されている。

苦闘終えて
父いま死せり
枕辺に
点滴三分の一
のこりてとまる

苦闘というのが、まず迫る。
私は余市でも歌志内でも前進座の話を聞かされた。
夜闇を忍んで街に入る。
要所には官憲が張り込んでいる。
それをすり抜けながら小屋に入ると、
「カン右衛門、ただ今参上」と口上が入る。
慌てた警官がおしよせる頃には、
役者はすでに次の興行先へ、
という具合に宣伝されていた。
本人たちにしてみれば、そんなにかっこいいものではなかったろうと思う。
実体としては、苦闘とは、
日々食うに事欠くような生活に耐えることを意味していた。
当然梅之助もそれを経験していたはずで、
「苦闘終えて」というのは
死をおくる梅之助にとっても実感だったはずだ。
そういう「同志的実感」の上に
点滴が残ってしまった、という“もったいなさ”が痛切である。
自ら選び取った道ではあるが、
点滴が三分の一も残ってしまったと惜しがる程に、
その生活は厳しいものであった

しかしほんとうに惜しいのは
点滴が三分の一も残ってしまったことにあるのではなく、
三分の一も残してとまってしまったことにある。
まだし残した仕事が三分の一も残っているのに
といううもったいなさである。

この歌には「苦闘終えて」という思いと、
「点滴三分のこりて」とまるという思いが重畳している。

いい歌である。
「心地良く我にはたらく仕事あれ、それをしとげて死なむと思う」という啄木の歌と、そこには響きあうものがある。
多分我々すべてに共通する歌となるだろう。