1995年 経済危機の底打ち

私は、この年の2月に三度目のキューバを訪れています。このときは息子と二人、まったく肩書きなしの個人的な旅行でした。

そのちょっと前、カルロス・ラヘが世界経済フォーラムで演説しています.ラヘは閣僚会議幹事長、首相に当たるポストです。また彼は国家評議会の経済担当副議長でもあり、経済政策のトップに位置しています。そこで94年度の成長率が5年ぶりにプラスに転じたと発表しました。そして経済収縮が底を打ったと宣言したのです。ラヘは、「もはや経済開放政策は後戻りできない」とし,各国の投資を呼びかけました.

もちろん、「観光事業や原油生産が上向くなど積極的な兆候が見られるが,まだ経済は回復期に入ったとはいえない」とするなど、基調は全体としては厳しいものでした。とくに砂糖生産が3年続きの不作となり、経済の基幹となる部門が立ち直れないままでは、到底楽観的な見方は出来ません。

経済が底を打って回復への兆しが見えたとすれば、まず必要なのが資金です。しかしこの時点でキューバの累積債務は91億ドルに達していますから、公的な援助はほとんど望めません.どうしても民間資本の導入が必要です。そのためには外国投資に関する法体系を整備しなければなりません。

9月の国会では、外国投資法改正案が可決されました。すでに昨年末には、ニッケルなどの工業分野では外国企業の全額出資による事業経営が認められていましたが、今回は教育・医療・軍事以外のすべての産業に参入することを認められました.合弁企業の所得税は30%に抑えられました.

いっぽうで、外国企業の活動に慎重な見方もあり、企業に必要な人材は,キューバ労働者派遣公団を通じて確保されることとなりました。従業員への給料は,いったん政府にドルで支払われ,政府が改めてペソで従業員に支払うこととなります.中途半端といえば中途半端ですが、富の不公平に対する警戒感が非常に強いことがうかがわれます。

ヘルムズ・バートン法

ラヘの底打ち宣言は、たんなるキューバの強がりとばかりはいえません。カストロ体制の崩壊は時間の問題と見ていた米政府内にも、まだまだキューバはしぶといぞという見方が広がります。

たとえばペンタゴンのシンクタンクのひとつは,「軍部のカストロに対する忠誠はあつく,キューバの経済改革が進めばカストロは長期にわたり政権を握り続ける可能性がある」と報告しています.

私も93年の末頃、訪問したときと比べてずいぶん人々に活気が出てきたと感じたものでした。カマグエイでネオンサインの点灯しているのを見たときは、「おお、ここまで来たか」と感慨にふけったことを憶えています。

ただ人々の気持ちは、2年前に比べてやや疲れた印象を持ちました。「みんなボートに乗って出て行ってしまった」と、ため息混じりに語ります。ホテルの前にたむろする少女たちの数もむしろ増えたようです。

米国は、キューバの崩壊を待ち望んでいたのにあてが外れて、頭に来ました。そこで出てきたのがヘルムズ・バートン法です。この法律は作成者の人品を疑う非常識な、まさにサディズムの極致ともいうべき法律です。

この法律は、ひとくちで言えば、「キューバ相手にビジネスを行う外国人を対象とする制裁」案です。米国が制裁しただけではほかの国との貿易を止められないので、ほかの国の企業にも制裁を強制しようということです。

ヘルムズは上院外交委員長、バートンは下院外交委員長で、あのトリセリも共同提案者に名を連ねています。

正式名称を「95年キューバの自由・民主主義連帯法」(S-381号法案)というこの法案は、3月に下院外交委員会を通過。その後、クリントン政権の抵抗を押し切って、9月には下院本会議で採択されます。


文章はここで止まっています。10年前にここまで書いて、ここで挫折しました。

いま書くと、もう5年くらい書き足せると思いますが、やっぱりそこで挫折するでしょう。無理して書いていくと座標軸が揺らいでくるのです。

ここまでは「歴史」の文章として書き進むことができましたが、これから書き継ごうとすると、数字や図表だらけになってしまいます。

おそらくキューバ人ですら、これを歴史的確信として書くことは困難ではないでしょうか。

とはいえ、同時者としての私たちはキューバの苦闘をフォローし語り継いでゆかなければなりません。

私をけしかけた M さんに感謝します。